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櫻木梅子[さくらぎ うめこ]
櫻木 梅子(さくらぎ うめこ、1908年8月8日 - 没年不詳)は、日本の女優である〔キネマ旬報, p.128-129.〕〔映画世界社, p.128.〕〔''桜木梅子''、''jlogos.com'', エア、2013年5月13日閲覧。〕〔''桜木梅子''、日本映画データベース、2013年5月13日閲覧。〕〔''桜木梅子''、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月13日閲覧。〕〔''桜木梅子''、allcinema, 2013年5月13日閲覧。〕〔''桜木梅子''、日活データベース、2013年5月13日閲覧。〕〔''櫻木梅子''、''桜木梅子''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月13日閲覧。〕。新漢字表記桜木 梅子〔〔〔〔〔〔〔。出生名同じ、結婚後本名川浪 梅子(かわなみ うめこ)〔〔。 == 人物・来歴 == 1908年(明治41年)8月8日、神奈川県横浜市に生まれる〔〔〔。 高等女学校に進学するも中途退学し、1925年(大正14年)、松竹蒲田撮影所に入社したが、同年、京都に移り日活関西撮影所第一部に移籍し、時代劇に転向する〔〔。同年7月14日に公開された尾上松之助の主演作『児來也』(監督池田富保)に出演し、満16歳で映画界にデビューした〔〔〔。1927年(昭和2年)8月、尾上多見太郎主演の『剣豪悲節』(監督若山治)に妹お嬌役で出演するが〔、病気のため降板し、衣川光子が代役を務めて同年8月26日に完成、同年9月24日に公開されている〔剣豪悲節 、日活データベース、2013年5月13日閲覧。〕。 1928年(昭和3年)6月、満19歳のときに同社の俳優部に所属するスター俳優桂武男(本名川浪正夫、1906年 - 没年不詳)と結婚し、同社を退社、夫の桂とともに谷崎十郎プロダクションを経て、牧野省三のマキノ・プロダクションに移籍する〔。1929年(昭和4年)7月25日には、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、櫻木は、マキノ智子、松浦築枝、岡島艶子、大林梅子、生野初子、河上君栄、三保松子、泉清子、都賀静子、北岡よし江、住乃江田鶴子、別所ます江らとともに「俳優部女優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年5月13日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)12月、賃金未払いが発生してストライキが起き、翌1931年(昭和6年)1月、製作が再開されたが〔御室撮影所 、立命館大学、2013年5月13日閲覧。〕、櫻木は、同社の解散時まで所属し、同年1月22日に公開された『人形になった女』(監督人見吉之助)が同社での最後の作品となった〔〔〔。 マキノ退社後は、赤沢映画(赤沢キネマ)を経て、阪東妻三郎プロダクションに入社、多く阪東妻三郎の相手役を務めた〔〔〔。1936年(昭和11年)には、日活に復帰、太秦発声映画や日活京都撮影所が製作を本格化したトーキーに出演した〔〔〔〔。1937年(昭和12年)には、前年に阪東妻三郎プロダクションを解散した阪東妻三郎、同じく同年4月にマキノトーキー製作所を解散したマキノ正博が同社に合流、同年7月14日・8月11日にそれぞれ公開された阪東の主演作『恋山彦 風雲の巻』『恋山彦 怒濤の巻』(監督マキノ正博)に櫻木も出演している〔〔〔。同年10月14日に公開された『水戸黄門廻国記』(監督池田富保)に出演したのを最後に、満29歳以降の出演記録はない〔〔〔〔。以降の消息も不明である。没年不詳。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「櫻木梅子」の詳細全文を読む
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