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梅叔鸞[ばい しゅくらん]
梅 叔鸞(ばい しゅくらん、)は、ベトナム梅朝唯一の君主である。またの名を梅 玄成(ばい げんせい、)ともいい、ベトナム史において唐に抵抗した指導者として名を残している。諡号を黒帝といい、このため梅黒帝(ばいこくてい、)とも史称される。 ==生涯== 枚埠地方(現在のハティン省)の貧家に生まれ、後に玉征(現在のゲアン省)に移った。長期にわたる肉体労働のため、四肢は頑健、肌の色は浅黒くなったという。 武徳7年(624年)に唐が交州都護府を設置して以降、当時の北ベトナムは唐に隷属する期間が続いた。貢租賦役の負担は重く、現地の人々の唐に対する鬱積は蓄積していた。開元10年(722年)、梅叔鸞は沙南を根拠地として唐に反抗し、衛山付近に万安城を建て、帝を称してここに都を置いた。梅叔鸞は、驩州都督府や山岳部の少数民族、また隣国のチャンパや真臘と連携し、北上して安南都護府の治所があったを攻め落とした。これによって安南は唐の支配から一時脱し、梅叔鸞の建てた梅朝が支配した。 その後、囲州を攻撃中に、楊思勗を司令官とする十万の唐軍の攻撃を受けた。梅朝軍は大敗し、梅叔鸞は戦死した〔『旧唐書』では捕らえられた上で処刑されたとする。〕。梅朝はわずか1年で滅んだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梅叔鸞」の詳細全文を読む
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