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梶原 しげる(かじわら しげる、本名:梶原 茂、1950年7月26日 - )は、神奈川県茅ヶ崎市出身〔ラジオライフ(三才ブックス)2015年9月号 p.14-17「梶原しげる DJ interview」〕のフリーアナウンサー、タレント、ナレーター、東京成徳大学応用心理学部客員教授。 ==来歴・人物== 神奈川県立外語短期大学付属高等学校、早稲田大学法学部卒業。早稲田大学在学中はハワイアンバンドサークルに在籍しており、ボーカルを担当(文化放送入社後もバンド活動を続けていたことがあった)〔別冊ラジオパラダイス「DJ名鑑」(1987年刊)p.223〕。フリーアナウンサー、タレント、ニュースキャスターの宮川俊二はサークルの3年先輩。 1973年に文化放送にアナウンサーとして入社。1年後輩の吉田照美は同学年でかつての同僚。1991年12月31日を以って文化放送を退社し、翌1992年1月1日に個人事務所「梶原放送局」を立ち上げ名前も本名から現芸名に改名。 自身の新人教育担当アナウンサーは、当時『セイ!ヤング』の人気パーソナリティであったみのもんたであったが、梶原はこれまでの学生時代にラジオをほとんど聴いたことがなかった(ほとんど唯一聞いたことの有ったラジオ番組は『大学受験ラジオ講座』だった)ため、みのを知らなかった〔。 若手時代はプロ野球中継の実況アナウンサーを務めたこともあったが、野球のイロハを知らなかったことで野球解説者の別所毅彦に叱られた。それ以降、スポーツ中継の実況はやっていない。にも拘らずフリー転身後は「ラスタとんねるず'94」(GIANT SHOWGI)や「フードバトルクラブ」といったスポーツの要素を含んだ番組でなかなかの実況の腕前を披露した。〔しかし、「ラスタとんねるず」の看板コーナー「ジャイアント将棋」の実況でマスクマンの正体をマスクが剥がれる前についうっかり喋ってしまったことがあり、大顰蹙を買ったことも(言うまでもない事だが不用意にマスクマンの正体を暴露することはタブーである)。〕2006年には日韓合作映画「力道山」にプロレス実況アナ役で出演。 ラジオパーソナリティを務める傍ら、文化放送社員でありながら日本テレビ「全国高等学校クイズ選手権」や平日深夜から早朝までの帯番組テレビ朝日「プレステージ」の木曜日の司会などテレビ番組にもレギュラー出演していたことがある。その高校生クイズ出演の理由は、当時の司会である福留功男の紹介だったという。 演歌を英語に訳して歌うことを趣味としており、自称「イングリッシュ演歌家元 シーゲル・カジワラ」と名乗る。テレビ朝日「題名のない音楽会」に出演したり(1979年)、八代亜紀の「舟唄」を梶原自身が英訳し歌唱した「A boatman's song」が宝酒造「宝正宗」のCMに起用されてヒットしたことがある(1987年)。その当時発売されたアルバム「梶原茂のイングリッシュ演歌」が2007年11月21日にCDとして再発売され、忘年会ソングとして話題となる。また宝塚歌劇団の愛好家であることを公言している〔。 司会業を続けながら、2000年4月からは東京都北区にある東京成徳大学大学院にて臨床心理学を専攻。同大学大学院修士課程修了。認定カウンセラー、シニア産業カウンセラー、健康心理士資格を取得する。2006年4月からは、同学人文学部客員教授に就任。「対人コミュニケーション論」を中心に講義している〔。2006年度からの中学1年の国語教科書「伝え合う言葉」(教育出版)に書籍「口のきき方」(新潮新書)の一部が採用される。 親の介護の為に実家へ通うために運転免許の取得の必要性が生じた。実家は茅ヶ崎という観光地であり休日には必ずというほど渋滞すること、高速道路を利用したい、各種費用という問題から、オートマチック限定免許の自動二輪免許を2005年に取得。スズキ・アヴェニス 150を取得し使用する。2006年夏からタップダンスを習い始める。 司会術については、文化放送時代の先輩であるみのもんたから「紅白歌合戦」の司会を推薦されるほどである。また2007年4月5日の「ウチくる!?みのもんたスペシャル」にゲスト登場し、みのの裏話を披露した。「オジサンズ11」では、みのの追跡レポートを行なっている。 厚生年金の加入期間が24年11ヶ月であることを文化放送の番組内で公表し、残り1ヶ月のサラリーマン生活を切望した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶原しげる」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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