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梶原景季[かじわら かげすえ]
梶原 景季(かじわら かげすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。梶原景時の嫡男。梶原源太景季とも。 源頼朝に臣従し、治承・寿永の乱で活躍。父とともに鎌倉幕府の有力御家人となるが、頼朝の死後に没落して滅ぼされた。 == 生涯 == 梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ一族で、源氏に従っていたが、平治の乱で源氏が没落すると平氏政権に仕えた。治承4年(1180年)、源頼朝は挙兵するが、石橋山の戦いで大敗を喫した。平氏方で参戦していた父の景時は頼朝の命を救い、後に頼朝が再挙して鎌倉に入り、関東を制圧すると景時は頼朝に臣従して御家人に列し、重用された。養和元年(1181年)4月、景季は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)〔他の10名は、北条義時・下河辺行平・結城朝光・和田義茂・宇佐美実政・榛谷重朝・葛西清重・三浦義連・千葉胤正・八田知重。主に有力御家人の二世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。文治5年(1189年)2月28日、頼朝が彗星を見るために寝所から庭に出た際は、御前を結城朝光と三浦義連、御後を景季と八田知重が警護している。〕。 養和2年(1182年)、懐妊した御台所・北条政子の産所への移転に供奉し、若公(源頼家)を無事出産すると護刀を父・景時とともに献上した。政子の妊娠中に頼朝がひそかに愛妾・亀の前のもとへ通っていたことが発覚し、激怒した政子が牧宗親に命じて亀の前の屋敷を打ち壊し、激怒した頼朝は宗親を罰するが、これを怒った政子の父の北条時政が伊豆国へ引き揚げてしまう事件が起きた。頼朝は時政の嫡男・義時のもとへ景季を遣わし、戻った景季は頼朝に義時は父に従わない旨を報告している。 寿永3年(1184年)正月、平氏を打ち破って京を支配していた源義仲と頼朝が対立し、頼朝は弟の源範頼と義経を近江国へ派遣。景時・景季父子はこれに従った。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶原景季」の詳細全文を読む
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