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梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。 == 生涯 == === 頼朝への臣従 === 梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族であり、大庭氏とは同族である。曾祖父、または従曾祖父に後三年の役で源義家のもとで戦い武勇を謳われた鎌倉景政がいる(梶原氏の祖・景久の従兄弟)。梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人であったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。 治承4年(1180年)8月、源頼朝が挙兵して伊豆国目代・山木兼隆を殺した。景時は大庭景親とともに頼朝討伐に向い、石橋山の戦いで寡兵の頼朝軍を打ち破った。敗走した頼朝は山中に逃れた。 大庭景親は追跡を続け、山中をくまなく捜索した。『吾妻鏡』によると、この時、景時は飯田家義ともども頼朝の山中の在所を知るも情をもってこの山には人跡なしと報じて、景親らを別の山へ導いたという。 『源平盛衰記』ではより詳しくこの場面が述べられている。敗軍の頼朝は土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎とししどの岩屋の臥木の洞窟(現在の湯河原町)へ隠れた。大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせた。頼朝は今はこれまでと自害しようとするが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て蝙蝠ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しいと叫んだ。大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとするが、景時は立ちふさがり「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄った。大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得た。 その後、頼朝は安房国へ逃れて再挙し、千葉常胤、上総広常ら東国武士が続々とこれに参じて大軍に膨れ上がり、10月に鎌倉に入った。頼朝は平維盛率いる平氏軍を撃破し、大庭景親は捕えられ斬られた。12月に景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏。翌養和元年(1181年)正月に頼朝と対面し御家人に列した。弁舌が立ち、教養のある景時は頼朝に信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられた。時期は不明だが景時は侍所所司(次官)に任じられている。 寿永2年(1183年)12月、上総広常と双六を打っていた景時は、にわかに盤をのりこえて広常の頸をかき斬り討ち取った。広常に謀反の企てがあるとの噂があり、頼朝が景時に命じて殺させたものだった。後に謀反の疑いは晴れて頼朝は後悔しているが、広常は鎌倉政権軍の中でも飛びぬけて大きな兵力を擁しており、そのために不遜な振る舞いが多く、また上洛して平氏を倒すよりも関東での割拠を指向しており、武家政権の樹立を目指す頼朝にとって危険な存在であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶原景時」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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