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梶本 隆夫(かじもと たかお、1935年4月8日 - 2006年9月23日)は、岐阜県多治見市出身のプロ野球選手(投手)・監督・野球解説者。山梨県甲府市生まれ。 愛称は「梶」あるいは「梶さん」「梶やん」。 弟は元プロ野球選手の梶本靖郎。 == 来歴 == 実家は岐阜県多治見市の「梶本ミシン商会」〔阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P44-P45〕。梶本が中学の時父親が亡くなり、母が女手ひとつで子育て、仕事を切り盛りした〔。多治見工業高校では、夏の岐阜県大会でノーヒットノーランを記録するなど優勝に貢献するも隣県の三重県との二次予選「三岐大会」で敗退し甲子園出場は逃すが、プロ3球団が入団交渉に来た。阪急が契約金50万、中日が120万、最後の巨人が200万。阪急に決めた理由は「高いお金をいただいてダメだったら申し訳ない。だったら一番安いところに」という母親の考えによるものだった〔。に阪急に入団。高卒ルーキー1年目にして監督の西村正夫に開幕投手に指名され勝利投手〔。球宴までに12勝を挙げ、ファン投票で1位で選ばれる〔。同年は55試合に登板し20勝を挙げるも、新人王争いは宅和本司(南海)に敗れる。ルーキーで20勝しながら新人王に選ばれなかったのは、現在も梶本ただひとり。スポーツ新聞では「5000円エース」と称されたが、実際の月給は2万円だった。本人は「その年の8月からいきなり給料が倍額になった」と回想しているが、これは新聞記事によって名を知らしめてくれたことに対するリップサービスである。には28勝を挙げたが後述するように大映スターズの三浦方義(29勝)に阻まれ最多勝を逃した。にも24勝と2年連続20勝、にも21勝を挙げるなどエースとして阪急の「灰色の時代」を支えた。 1957年7月23日の対南海戦で達成した公式戦9連続奪三振は、現在もプロ野球記録。このときの1人目が投手の皆川睦男。最初は「いつもよりちょっと三振が多いな」くらいにしか思っていなかったが、9人目を三振に奪った時に捕手の山下健に「カジ、これ新記録やで」と言われ、急に記録を意識したという。10人目の打者は再び投手の皆川(皆川も好投していたため、代打を出せなかった)だったが、不用意にストライクを取り行ったところをバットに当てられ、センターフライになり、記録が途絶えた。梶本は後に「もし皆川をまた三振に取っていたら20は行ったんじゃないかな」と語っている〔「阪急ブレーブス黄金の歴史~よみがえる勇者の記憶」ベースボール・マガジン社〕。 1959年6月12日の試合で9回2死まで無安打に抑えながら、最後の打者に安打を打たれてノーヒットノーランを逃している。 後に入団する米田哲也とヨネカジコンビを形成し、Bクラスが多かった昭和30年代の阪急を支えたが、二人とも年間50試合前後の登板数であり、このタフさがチームの支柱となっていた〔野球殿堂2012 The Baseball Hall of Fame 野球体育博物館 (編集)、ベースボールマガジン社、2012年、P188〕。はパームボールを習得して15勝を挙げ、念願の初優勝に貢献。同年に通算200勝を達成。に現役引退。通算254勝255敗と、200勝以上を記録した投手の中で唯一負け越している。時には貧弱な打線を支えるべく3番として出場したことがあるほか、一塁手として試合に出場したこともあった。また、にはシーズン15連敗という不名誉な記録をマークした結果、200勝以上を記録した投手としては史上初の先に200敗を記録した投手となった(後に東尾修も記録)。 4月14日の対東映戦では、二塁塁審の露崎元弥に公認野球規則8.04に規定された、20秒ルール(無走者の時、投手はボールを受けてから20秒以内に投球しなければ、球審はボールを宣告する。試合の引き延ばしを防ぐための規定)によってボールを宣告された。露崎はストップウオッチで計測しており、文句のつけようがなかった。梶本は日本プロ野球公式戦で投球の遅延行為を取られた最初の適用者であった。〔にこの8.04条項は改正され、12秒以内とさらに厳しくなった。8月18日には横浜の工藤公康がこの年よりローカルルールとして制定された15秒ルールによりボールを宣告された。7月18日には、中日のエンジェルベルト・ソトが2度目の適用者となった〕。 に引退。引退後のから、及びからまでは阪急一軍投手コーチ・ヘッドコーチを務め、5度のリーグ優勝と3度の日本一に貢献。からまでは阪急監督。1986年から1988年は阪急球団調査部長。からはオリックス二軍投手コーチ。からは中日ドラゴンズ二軍投手コーチと、指導者としての評価も高い。監督辞任した次の年に同じチームのコーチとなった例はプロ野球史上でも非常にまれである。なお1984年には上田利治の病気療養により、数試合だが監督代行となったこともあった。現場を離れてからはデイリースポーツ野球評論家、J SPORTS、ラジオ関西の野球解説者として活躍した。 弟の梶本靖郎も阪急の投手で、通算3勝2敗の成績を残している。このうちの1勝は兄弟でリレーした試合であった。 2006年9月23日午前6時26分、呼吸器不全のため神戸市内の病院で死去。満71歳没。 死後、に野球殿堂入り。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶本隆夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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