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梶間健一 : ウィキペディア日本語版
梶間健一[かじま けんいち]

梶間 健一(かじま けんいち、1952年8月30日 - )は、茨城県鹿島郡旭村(現:鉾田市)出身の元プロ野球選手投手)。
== 来歴・人物 ==
茨城県立鉾田第一高等学校では、エースとして1970年夏の甲子園予選東関東大会準決勝に進出するが、渡辺進遊撃手のいた銚子商に敗れ甲子園出場を逸する。卒業後は日本鋼管に入社。1974年都市対抗にリリーフ投手として初登板。1976年都市対抗では、樋野和寿三塁手前川善裕外野手などの強力打線にも助けられ順調に勝ち進む。決勝では先発投手として起用され、北海道拓殖銀行を破り優勝を飾った。
1977年ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。1年目より広岡達朗監督に積極的に起用され、先発・中継ぎで大活躍するが、新人王大洋斉藤明雄に輝いた。翌年、チーム初のリーグ優勝に貢献し、阪急との日本シリーズでも第5戦の先発を含めて、3試合に登板して防御率1.50の成績をあげ、日本一にも貢献した。
1979年以降、尾花高夫と共に先発陣の柱となり2ケタ勝利を5回記録、173cmと小柄ながら、左のサイドから繰り出す大きなカーブとスローカーブを駆使し、巧みな投球術で勝ち星を重ね、長期間低迷するチームを支え続けた。またコーナーの狙いすぎで与死球が多いのがピッチングの特徴だった。掛布雅之が現役時代のエピソードとして「梶間さんのカーブは背中から来るんで見えないんですよ、あれは怖かったですね」と語っている〔2009年6月11日の【こんちわコンちゃんお昼ですょ!】のゲストコーナーで語った。〕。安田猛とならぶ阪神キラーであった。安田の力が衰えると阪神戦で好投し「梶魔」と阪神ファンから嫌われたが、監督の広岡達朗は「梶間(火事場)の馬鹿力」と言って評価した。1983年5月7日、神宮球場での阪神戦の6回に、ランディ・バースに来日初本塁打を打たれた投手である。
1986年に故障して以降、投球回数が減少し1988年に引退。その後は、主に2軍投手コーチ、ヤクルト合宿所戸田寮の寮長などを歴任。より高仁秀治の後任としてNPB12球団ジュニアトーナメントのスワローズジュニア監督に就任した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「梶間健一」の詳細全文を読む



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