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森 毅(もり つよし、1928年1月10日 - 2010年7月24日〔数学者の森毅氏死去=京都大名誉教授、82歳-評論家、テレビでも人気 時事ドットコム 2010年7月25日〕)は、日本の数学者、評論家、エッセイスト。京都大学名誉教授。専攻は、関数空間の解析の位相的研究。 ==来歴・人物== 東京府荏原郡入新井町(現東京都大田区)生まれ、大阪府豊中市育ち。亡くなるまで京都府八幡市に在住した。〔八幡市の広報誌「広報やわた」より。〕 小学生の頃から塾へ通うなどしていたが、『戦時中、ぼくはというと、自他共に許す非国民少年で、迫害のかぎりを受けた不良優等生、要領と度胸だけは抜群の受験名人、それに極端に運がよくって、すべての入試をチョロマカシでくぐりぬけた』という(本人著『数学受験術指南』より)。 旧制北野中学校(現・北野高校)在学中から数学が得意であった。その後、旧制第三高等学校(現・京都大学教養部)へ進学。受験した理由は戦時下にあって最もリベラルが残っている、と評判であったからだそうだ。在学中の二年生の時に終戦を迎え、東京帝国大学理学部数学科へ。この頃は、東大では医学部よりも理学部物理学科の方が難関であったらしく、『数学科なんて入りやすいほうだった』(同著)という。 数学・教育にとどまらず社会や文化に至るまで広い範囲で評論活動を行う。歌舞伎、三味線、宝塚歌劇団は在学中より熱中し、これらもエッセイの材料としている。北海道大学理学部助手を務めた後、1957年京都大学教養部助教授に就任。1971年、教授昇任の審査の際に、助教授就任後の数学者としての業績は論文が2本だけだったため、「これほど業績がない人物を教授にしてよいのか」と問題になったが、「こういう人物がひとりくらい教授であっても良い」ということで京都大学の教授となった。 数学教育に関していえば、民間の教育団体である数学教育協議会の活動との関わりが挙げられる。 京大時代は名物教授の一人として人気を博す。40代半ばから一般向けの数学の本で知られ、1981年刊行の『数学受験術指南』はロングセラーとなった。また浅田彰は森に数学を習い、ニューアカ・ブームの当時は盛んに森を称揚していた。「一刀斎」と号する。 「エリートは育てるもんやない、勝手に育つもんや」というのが教育に関する持論。 新聞・テレビなどのマスコミでも広く活躍。また、文学・哲学についても造詣が深く、『ちくま文学の森』『ちくま哲学の森』などの編集に加わった。 萩原延壽とは三高時代の同級生で親交深かった。 2009年2月27日、一人暮らししていた八幡市内の自宅で卵料理を作っていた最中に、ガスコンロの火が着ていた衣服に燃え移り、腕、胸、背中など全身の30パーセント以上に大火傷の重傷を負った。 2010年7月24日午後7時30分、敗血症性ショックのため大阪府寝屋川市内の病院で死去〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森毅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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