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森琴石 : ウィキペディア日本語版
森琴石[もり きんせき]
森 琴石(もり きんせき、1843年3月19日天保14年2月19日〔旧来は3月19日とされていたが、戸籍謄本に記された誕生日は2月19日であり、おそらく琴石自身が旧暦誕生日を月遅れで読み違えて新暦3月19日と称したと推測される。〕) - 1921年大正10年)2月24日)は、日本の明治から大正にかけて大阪で活躍した南画家銅版画家。晩年には文展審査員に任命され、大阪南画の総帥と目される一方、若年期は南画を描くかたわら響泉堂の名で、優れた銅版画を数多く制作した。
== 略伝 ==
摂津国有馬温泉(現在の兵庫県神戸市北区)で、梶木源次郎の三男として生まれる。名は熊、後年繁と改める。初号を蘆橋、次に金石、更に琴石と改めた。字は吉夢。別号に栞石、鉄橋、雲根館等も号し、斎号を聴香読画廬。父・源次郎は、現在も同地で高級旅館として知られる「中の坊」を経営し、有馬温泉の炭酸水発見者でもある。1846年弘化3年)大坂で旅館「出石屋」を経営する森猪平(のち善蔵)の養子となり、1850年嘉永3年)鼎金城に南画を学んだ。金城が1862年文久2年)に亡くなると、忍頂寺静村(梅谷)の門に転じ、一方漢籍妻鹿友樵(めが ゆうしょう)、高木退蔵に学んだ。
1873年明治6年)東京に遊学して、高橋由一から油絵の手ほどきを受けたという。ただし、由一の門人帳には琴石に当たる名が見えず、実際の所は不明である。ただ、由一と親交があり銅版画家で知られる松田緑山(二代目玄々堂)とは、何らかの接触があったと推測される。明治10年頃から胡鉄梅王冶梅ら来舶清人画家と交流する。に明治10年代には全国各地の景勝地を巡り、写生画稿が幾つか残っている。1882年(明治15年)の第一回内国絵画共進会で褒状。1884年(明治17年)浪華画学校の支那画教員となり、後に同僚になった矢野五洲と協働して、1889年(明治22年)浪華学画会を結成、翌年大阪府立博物場で大阪絵画共進会を開催する。翌年9月に宮内庁の御洋画家となったとされる。
このように南画家として活発に活動する一方で、明治8年頃から21、22年にかけて多くの銅版画を手掛けている。現在確認されているだけで60点から70点以上、特に地図は25点以上と多い。琴石が銅版画をどこで身につけたかはよく分かっていない。若林春水堂に学んだとされるが、作風の類似から松田緑山からも影響を受けたとも言われる。明治の銅版画家には、青野桑洲結城正明柳田龍雪中村月嶺らのように、狩野派の絵師から転じたものが少なくないが、琴石のように南画家出身者は異例である。
その後も、内国勧業博覧会日本美術協会展などで受賞を重ね、大家として認められるようになる。大正2年(1913年)大阪の画家では初めて文展審査員に選ばれた。なお琴石を扱った文献では、同年に帝室技芸員を拝命したとされる。しかし、当時の『官報』に記載はなく、帝室技芸員を扱った学術論文などにも琴石の名は無い。これに先立つ明治43年(1910年)にも帝室技芸員の審査があり、琴石は鈴木松年野村文挙村瀬玉田山本梅荘菊池芳文竹内栖鳳山元春挙らと共に総長から候補には挙げられたものの〔東京国立博物館保管の帝室技芸員関係資料より(樋口秀雄 「帝室技芸員制度─帝室技芸員の設置とその選衡経過」 東京国立博物館編集 『MUSEUM』 第202号、1968年1月、p.30。横溝廣子 「帝室技芸員関係書類(東京国立博物館保管)概要」『三の丸尚蔵館年報・紀要』第17号、2010年3月、p.84)。〕、最終的に選から漏れたようだ。晩年は病気がちで、大正10年(1921年)78歳で没した。墓は当初安治川の墓地(場所不明)に葬られたが、後に四天王寺に移された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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