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植松雅言 植松 雅言(うえまつ まさこと、1827年1月25日(文政9年12月28日)- 1876年(明治9年)6月30日〔『平成新修旧華族家系大成』上巻、237-238頁。〕)は、幕末の公家、明治の華族。 ==経歴== 山城国京都で参議・東園基貞の二男〔『幕末維新大人名事典』上巻、205頁では「三男」。〕として生まれ、修理権大夫・植松雅恭の養子となる〔〔『明治維新人名辞典』141-142頁。〕。天保11年(1840年)昇殿を許された〔。安政5年(1858年)廷臣八十八卿列参事件に加わり、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変では長州藩士のため画策した〔。慶応2年8月(1866年)朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり差控となる〔。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与に任じられた〔『百官履歴 上巻』372-373頁。〕。その後、神祇事務局権判事、同判事加勢、神祇官判事、氷川社遷宮御用掛、神祇権大祐などを歴任し、明治4年1月18日(1871年3月8日)免本官となった〔〔。
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