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植田孟縉 : ウィキペディア日本語版
植田孟縉[うえだ もうしん]

植田 孟縉(うえだ もうしん、宝暦7年12月8日1758年1月17日) - 天保14年12月14日1844年2月2日))は、八王子千人同心組頭。

== 経歴 ==
宝暦7年(1757年)12月8日、熊本自庵の子として江戸屋敷で生まれる。19歳のとき八王子千人同心組頭植田元政の養子となる。通称は十兵衛、孟縉と号した。
漢学塾を開く。文化10年(1813年)、八王子千人頭原胤敦に地誌創作の幕命があると、孟縉は塩野適斎らとともに武蔵国多摩郡高麗郡秩父郡の地誌編纂に従事、「新編武蔵風土記稿」の一部を完成させる。さらに「新編相模国風土記稿」の編纂にも従事した。「新編武蔵風土記稿」編纂に際して、文政6年(1823年)、多摩郡を中心とした地誌「武蔵名勝図会」を著し、昌平黌林述斎に献上した。その他、「日光山志」「日光名勝考」「鎌倉名勝図」「浅草寺旧跡考」など著書多数。
天保14年(1843年)12月14日、自宅(現・八王子市千人町)で死去。享年87。墓地は宗徳寺東京都八王子市滝山町1-719)にある。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「植田孟縉」の詳細全文を読む



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