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楊慎矜[よう しんきょう] 楊 慎矜(よう しんきょう、生年不詳 - 天宝六年(747年))は唐代玄宗期の官僚。経済手腕で玄宗に重用された。政界で中立的な立場を取ろうとしていたが、次第に李林甫に憎まれ、冤罪で玄宗に自殺を命じられた。 == 経歴==
===経済官僚として=== 隋の煬帝の玄孫にあたる。父・楊隆礼は州刺史を歴任し、清廉さと厳格さで知られており、太府卿にまで昇進した。太府での在職20余年の間、多くの無駄を省いたことで知られていた。開元21年(733年)、引退の時に玄宗に子の中で後任となれるものをたずねられた際、三人とも勤勉で清廉である中でも次男の楊慎矜が最も優れていると推薦している。 そのため、当時から落ち着きとその才覚で知られ、汝陽令として有能と評判であった楊慎矜は監察御史・知太府出納に抜擢された。弟の楊慎名も大理評事となり、相当な恩顧をこうむった。楊慎矜は数年で事務に通暁したが、諸州の上納した物で水に浸かっていたり破れたりしたものを皆、元の州に銭で納めるようにしたためにインフレが起き、そのため州県の徴調が絶えなくなったとされる。 天宝二年(743年)、右贊善大夫となっていた楊慎矜は、御史中丞の兼任を命じられたが、宰相の李林甫ににらまれることを恐れ固持したため、代わりに諫議大夫の兼任を命じられた。しかし、李林甫に屈した態度をとっていたため、同年に御史中丞・諸道鋳銭使に任じられている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊慎矜」の詳細全文を読む
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