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楊洲周延 : ウィキペディア日本語版
楊洲周延[ようしゅう ちかのぶ]
楊洲 周延(ようしゅう ちかのぶ、天保9年8月8日1838年9月26日〉 - 大正元年〈1912年9月29日)とは、江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師
== 来歴 ==

=== 生い立ち ===
歌川国芳三代歌川豊国及び豊原国周の門人。姓は橋本、通称は作太郎、は直義。楊洲、楊洲斎、一鶴斎と号す。
越後国高田藩(現新潟県上越市江戸詰の下級藩士橋本弥八郎直恕(なおひろ、家禄5石6斗2人扶持)の長男として生まれる。弥八郎は中間頭を務め、目付を兼任した。文久2年(1862年)の記録によれば、25歳の周延も「帳付」という役職についている〔周延の出自については江戸幕府御家人であると広く流布されているが、上越市立高田図書館所蔵の高田藩の分限帳「江戸役録(禄)帳」文久2年(1862年)頃の項目に帳付・橋本作太郎の名があり、御家人説は誤りだと考えられる。また、天保15年(弘化元年〈1844年〉)中とされる「高田江戸分限帳」中にある「江戸三屋敷分限帳」に、父橋本弥八郎の名があり江戸中屋敷勤めであったと考えられる。〕。周延は、幼い頃に天然痘にかかりあばた顔だったため写真嫌いで、亡くなった時も写真は1枚も無かったという〔周延の孫の証言(図録(1978))。〕。
嘉永5年(1852年)15歳で国芳に絵を学んで、一丹斎芳鶴を名乗る(有署名作品は未確認)。安政2年(1855年)頃から三代目豊国につき、二代目歌川芳鶴、一鶴斎芳鶴と称して〔ただし、一鶴斎芳鶴も未確認。「鶴」の字が重なる事などから「一鶴斎」は誤伝とする意見もある(図録(2012)p.6)。〕浮世絵師となった。その後、豊原国周門下に転じて周延と号した。周延の作画期は文久頃から明治40年(1907年)頃までの約45年に及んだ。周延は3枚続の風俗画を得意とし、美人画に優れていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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