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横浜米軍機墜落事件 : ウィキペディア日本語版
横浜米軍機墜落事件[よこはまべいぐんきついらくじけん]

横浜米軍機墜落事件(よこはまべいぐんきついらくじけん)は、1977年9月27日に発生、一般市民3名が死亡し6名が負傷した航空事故である。
== 事件の経緯 ==
1977年9月27日13時過ぎ、厚木海軍飛行場(厚木基地)を離陸し、太平洋上の航空母艦ミッドウェイに向かおうとしたアメリカ海兵隊の戦術偵察機(RF-4BファントムII611号機)が、離陸直後に燃料満載の状態でエンジン火災を起こした。乗員2名は機外に緊急脱出し、パラシュートで神奈川県横浜市緑区(現・青葉区)鴨志田町付近に着地したのち、海上自衛隊厚木救難飛行隊のヘリコプターに収容されて基地に無事帰還した。一方、放棄され制御を失った機体は5kmほど離れた同区荏田町(現・青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地に墜落し、周辺の家屋20戸〔町田市周辺で発生した米軍・自衛隊機の事故 〕を炎上・全半壊させた。
アメリカ軍機が炎上し墜落して行く状況や、脱出してパラシュートで降下するパイロットの様を墜落現場から西方約2 kmに所在する横浜市立鉄小学校でちょうど開催されていた運動会の観客が8mmフィルムで偶然に撮影された。その映像はTBSのニュースライブラリーに残っており、後年「カメラがとらえた決定的瞬間」として紹介されている。
事故発生から10分後の13時23分に出動した海上自衛隊のS-62J救難ヘリコプターは、13時25分頃黒煙を目撃、30分頃事故現場上空に到着した。既に消防車が来ているのを確認した上でパイロットを収容し、再度事故現場上空に状況を確認(放水が開始されていた)上で、基地に帰還した。これとは別に40名ほどの陸上救難隊が編成され事故現場へ向かう準備をしていたが、事故現場が基地から約18kmと離れていたこと、上記の通り消防などによる救難活動が開始されていたことから結局出動しなかった。〔昭和53年4月14日参議院決算委員会、防衛庁(当時)伊藤圭一防衛局長の答弁より。〕〔神奈川県知事からの災害派遣出動要請は出ていない。負傷者は事故直後、救急車が到着する以前に一般人の車で病院に搬送されていた。〕
アメリカ軍関係者は約1時間後の14時20分頃に現場に到着し、真っ先に現場周囲の人たちを締め出したのち、エンジンなどを回収。この作業の際には笑顔でピースサインを示して記念撮影をおこなう兵士もいた〔土志田勇『「あふれる愛」を継いで ―米軍ジェット機が娘と孫を奪ったー』(2005年、七つ森書館)〕〔『米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ』〈改題『「あふれる愛」を継いで』〉(2007年、七つ森書館)〕。
墜落地周辺では火災により一般市民9名が負傷、周辺の人々により次々に車で病院に搬送されるもうち三歳と一歳の男児2名の兄弟は全身火傷により翌日死亡した。また兄弟の母親である女性も全身にやけどを負い、皮膚移植手術を繰り返しながら長期間にわたり入退院を繰り返したのち一時はリハビリを行なえるまでに肉体的には回復するものの精神的なダメージは計り知れず、最終的には精神科単科病院に転院し、事故から4年4ヶ月後の1982年1月26日に、心因性の呼吸困難により死亡した。NHK加賀美幸子アナウンサーは、涙ながらにこのニュースを伝えた。
転院に関して、遺族は「半ば強制的」であったと主張している〔〔。
被害者女性の名をつけた「カズエ」というバラが園芸品種名として登録されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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