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橿原丸級貨客船 : ウィキペディア日本語版
橿原丸級貨客船[かしはらまるきゅうかきゃくせん]

橿原丸級貨客船(かしはらまるきゅうかきゃくせん)とは、日本郵船が保有し運航を予定していた貨客船のクラス。日本政府と日本海軍の要請によりサンフランシスコ航路向け貨客船として1939年(昭和14年)から三菱長崎造船所川崎造船所で1隻ずつ建造が開始されたが、有事の際には日本海軍によって空母になるようあらかじめ設計されており、世界情勢の緊迫により2隻とも建造半ばにして空母に改装されることとなって、貨客船としての姿を一度も見せることはなかった。2隻は改装を経て飛鷹型航空母艦として竣工し太平洋戦争の戦場で活躍したが、1隻は戦没して残る1隻も終戦を迎えたのち解体されて姿を消した。空母に改装されることなく竣工していれば、優秀船舶建造助成施設によって建造された新田丸級貨客船をはるかにしのぐ規模を誇り、太平洋戦争開戦前に竣工した貨客船に限定しても、同じ日本郵船の「秩父丸(鎌倉丸)」(17,526トン)をも大きく追い抜く日本最大の貨客船となるはずであった。
本項では建造の背景や予定されていた特徴について説明する。飛鷹型航空母艦となってからの事項は当該項目を参照されたい。
==建造までの背景==
欧州航路とならぶ日本郵船の主力航路の一つであった北アメリカ航路のうちサンフランシスコ航路は、「浅間丸」(16,947トン)をはじめとする浅間丸級貨客船が依然として躍していた。競合するバンクーバー発着のは「」 (') (26,032トン)などで、が設立し、その一族が率いるダラー・ラインも「プレジデント・フーヴァー」 (') (21,936トン)などで太平洋の覇を競っていた。このうち、ダラー・ラインは放漫経営がたたって経営が苦しくなったところに「プレジデント・フーヴァー」が1937年(昭和12年)12月に台湾火焼島で座礁沈没する不運が重なり、自社株を政府に引き渡して事業から撤退〔#三浦 pp.188-189〕。残るは日本郵船とCPLの争いとなったが、「エンプレス・オブ・ジャパン」はとにかく快速を誇り、横浜港からホノルルまでは浅間丸級貨客船より1日早く着き、ホノルルからバンクーバーでも距離がホノルルとサンフランシスコの間よりも遠いにもかかわらず、ホノルルとサンフランシスコ間と同じ日数で到着することができた〔#三浦 p.190〕。貨物の面では高級品の大阪商船畿内丸型貨物船に代表される日本の高速ディーゼル貨物船隊に根こそぎ運ばれるなどの影響はあったが、旅客の利便の面ではCPL船隊の快速が勝っていた〔。
日本政府は昭和12年に優秀船舶建造助成施設を施行し、逓信省から優秀船建造の意向を打診された日本郵船は助成施設を行使して7隻9万4500トンの新造優秀貨客船を建造することとなり〔#日本郵船株式会社百年史 p.332〕、これは日本郵船が計画していた25隻25万トンにおよぶ大建造計画の一角をなした〔#創業百年の長崎造船所 p.269〕建造計画で欧州航路向けの新田丸級貨客船3隻、シアトル航路および豪州航路向けの三池丸級貨客船4隻の整備が決まった。おりしも東京オリンピック1940年(昭和15年)に開催されることが決まり、超大型貨客船建造の機運が高まりつつあった〔#創業百年の長崎造船所 p.277〕。旗振り役は日本海軍であり、日本海軍は1936年(昭和11年)の時点で「24,000排水トン、24ノット、有事の際には空母へ改装」を条件とする貨客船の建造を逓信省に要請したものの、この時は建造案の帝国議会への提出にはいたらなかった〔#正岡 p.20〕。昭和12年に改めて「26,000から27,000総トン、半載状態で23ノット、有事の際には3か月で空母に改装」という条件で建造案が検討され始め、助成割合について逓信省が主張する8割案と大蔵省が主張する5割案で対立があったが、日本海軍が折衷案として6割案を提示して妥結した〔〔#創業百年の長崎造船所 p.278〕。これが「大型優秀船建造助成施設」である。日本政府は1938年(昭和13年)3月、表向きは「サンフランシスコ航路の代替船」ということにして、日本郵船に建造を命じた〔〔#日本郵船株式会社百年史 p.334〕。
ところが、当の日本郵船はあまり乗り気ではなかった。1隻あたり2400万円の建造費に対する助成金が8割から6割に下がったことや当時のニーズ、採算性、そして自社の資金繰りの事情を勘案して、27,000総トンもの大型貨客船が必ずしも必要ではないと判断していたからである〔〔#野間 (1993) p.233〕。日本政府は日本郵船の憂慮を察したのか、運航上の損失の補償を補助する内約をとりつけて日本郵船から建造の受諾を引き出した。これが橿原丸級貨客船である。なお、大阪商船出身の海事史家である野間恒は「日本郵船が断れば、建造話は大阪商船に持ち込まれるだろうから、苦慮の上に面子をかけて建造案を受諾した」という趣旨の話を述べているが〔、建造案を受諾するかどうかで苦慮したことは確実としても〔〔、大阪商船云々の件についての話の出所は不明である。また、建造に際しては日本郵船は2隻とも三菱長崎造船所で建造する計画であったが、日本海軍の意向もあって1隻は川崎造船所に発注されることとなった〔。日本郵船が川崎造船所に貨客船の建造を依頼するのは、1914年(大正3年)竣工の「八阪丸」(10,932トン)以来のことであった〔#郵船100年史 p.162〕〔#松井 p.34〕。) (26,032トン)などで、が設立し、その一族が率いるダラー・ラインも「プレジデント・フーヴァー」 (') (21,936トン)などで太平洋の覇を競っていた。このうち、ダラー・ラインは放漫経営がたたって経営が苦しくなったところに「プレジデント・フーヴァー」が1937年(昭和12年)12月に台湾火焼島で座礁沈没する不運が重なり、自社株を政府に引き渡して事業から撤退〔#三浦 pp.188-189〕。残るは日本郵船とCPLの争いとなったが、「エンプレス・オブ・ジャパン」はとにかく快速を誇り、横浜港からホノルルまでは浅間丸級貨客船より1日早く着き、ホノルルからバンクーバーでも距離がホノルルとサンフランシスコの間よりも遠いにもかかわらず、ホノルルとサンフランシスコ間と同じ日数で到着することができた〔#三浦 p.190〕。貨物の面では高級品の大阪商船畿内丸型貨物船に代表される日本の高速ディーゼル貨物船隊に根こそぎ運ばれるなどの影響はあったが、旅客の利便の面ではCPL船隊の快速が勝っていた〔。
日本政府は昭和12年に優秀船舶建造助成施設を施行し、逓信省から優秀船建造の意向を打診された日本郵船は助成施設を行使して7隻9万4500トンの新造優秀貨客船を建造することとなり〔#日本郵船株式会社百年史 p.332〕、これは日本郵船が計画していた25隻25万トンにおよぶ大建造計画の一角をなした〔#創業百年の長崎造船所 p.269〕建造計画で欧州航路向けの新田丸級貨客船3隻、シアトル航路および豪州航路向けの三池丸級貨客船4隻の整備が決まった。おりしも東京オリンピック1940年(昭和15年)に開催されることが決まり、超大型貨客船建造の機運が高まりつつあった〔#創業百年の長崎造船所 p.277〕。旗振り役は日本海軍であり、日本海軍は1936年(昭和11年)の時点で「24,000排水トン、24ノット、有事の際には空母へ改装」を条件とする貨客船の建造を逓信省に要請したものの、この時は建造案の帝国議会への提出にはいたらなかった〔#正岡 p.20〕。昭和12年に改めて「26,000から27,000総トン、半載状態で23ノット、有事の際には3か月で空母に改装」という条件で建造案が検討され始め、助成割合について逓信省が主張する8割案と大蔵省が主張する5割案で対立があったが、日本海軍が折衷案として6割案を提示して妥結した〔〔#創業百年の長崎造船所 p.278〕。これが「大型優秀船建造助成施設」である。日本政府は1938年(昭和13年)3月、表向きは「サンフランシスコ航路の代替船」ということにして、日本郵船に建造を命じた〔〔#日本郵船株式会社百年史 p.334〕。
ところが、当の日本郵船はあまり乗り気ではなかった。1隻あたり2400万円の建造費に対する助成金が8割から6割に下がったことや当時のニーズ、採算性、そして自社の資金繰りの事情を勘案して、27,000総トンもの大型貨客船が必ずしも必要ではないと判断していたからである〔〔#野間 (1993) p.233〕。日本政府は日本郵船の憂慮を察したのか、運航上の損失の補償を補助する内約をとりつけて日本郵船から建造の受諾を引き出した。これが橿原丸級貨客船である。なお、大阪商船出身の海事史家である野間恒は「日本郵船が断れば、建造話は大阪商船に持ち込まれるだろうから、苦慮の上に面子をかけて建造案を受諾した」という趣旨の話を述べているが〔、建造案を受諾するかどうかで苦慮したことは確実としても〔〔、大阪商船云々の件についての話の出所は不明である。また、建造に際しては日本郵船は2隻とも三菱長崎造船所で建造する計画であったが、日本海軍の意向もあって1隻は川崎造船所に発注されることとなった〔。日本郵船が川崎造船所に貨客船の建造を依頼するのは、1914年(大正3年)竣工の「八阪丸」(10,932トン)以来のことであった〔#郵船100年史 p.162〕〔#松井 p.34〕。) (21,936トン)などで太平洋の覇を競っていた。このうち、ダラー・ラインは放漫経営がたたって経営が苦しくなったところに「プレジデント・フーヴァー」が1937年(昭和12年)12月に台湾火焼島で座礁沈没する不運が重なり、自社株を政府に引き渡して事業から撤退〔#三浦 pp.188-189〕。残るは日本郵船とCPLの争いとなったが、「エンプレス・オブ・ジャパン」はとにかく快速を誇り、横浜港からホノルルまでは浅間丸級貨客船より1日早く着き、ホノルルからバンクーバーでも距離がホノルルとサンフランシスコの間よりも遠いにもかかわらず、ホノルルとサンフランシスコ間と同じ日数で到着することができた〔#三浦 p.190〕。貨物の面では高級品の大阪商船畿内丸型貨物船に代表される日本の高速ディーゼル貨物船隊に根こそぎ運ばれるなどの影響はあったが、旅客の利便の面ではCPL船隊の快速が勝っていた〔。
日本政府は昭和12年に優秀船舶建造助成施設を施行し、逓信省から優秀船建造の意向を打診された日本郵船は助成施設を行使して7隻9万4500トンの新造優秀貨客船を建造することとなり〔#日本郵船株式会社百年史 p.332〕、これは日本郵船が計画していた25隻25万トンにおよぶ大建造計画の一角をなした〔#創業百年の長崎造船所 p.269〕建造計画で欧州航路向けの新田丸級貨客船3隻、シアトル航路および豪州航路向けの三池丸級貨客船4隻の整備が決まった。おりしも東京オリンピック1940年(昭和15年)に開催されることが決まり、超大型貨客船建造の機運が高まりつつあった〔#創業百年の長崎造船所 p.277〕。旗振り役は日本海軍であり、日本海軍は1936年(昭和11年)の時点で「24,000排水トン、24ノット、有事の際には空母へ改装」を条件とする貨客船の建造を逓信省に要請したものの、この時は建造案の帝国議会への提出にはいたらなかった〔#正岡 p.20〕。昭和12年に改めて「26,000から27,000総トン、半載状態で23ノット、有事の際には3か月で空母に改装」という条件で建造案が検討され始め、助成割合について逓信省が主張する8割案と大蔵省が主張する5割案で対立があったが、日本海軍が折衷案として6割案を提示して妥結した〔〔#創業百年の長崎造船所 p.278〕。これが「大型優秀船建造助成施設」である。日本政府は1938年(昭和13年)3月、表向きは「サンフランシスコ航路の代替船」ということにして、日本郵船に建造を命じた〔〔#日本郵船株式会社百年史 p.334〕。
ところが、当の日本郵船はあまり乗り気ではなかった。1隻あたり2400万円の建造費に対する助成金が8割から6割に下がったことや当時のニーズ、採算性、そして自社の資金繰りの事情を勘案して、27,000総トンもの大型貨客船が必ずしも必要ではないと判断していたからである〔〔#野間 (1993) p.233〕。日本政府は日本郵船の憂慮を察したのか、運航上の損失の補償を補助する内約をとりつけて日本郵船から建造の受諾を引き出した。これが橿原丸級貨客船である。なお、大阪商船出身の海事史家である野間恒は「日本郵船が断れば、建造話は大阪商船に持ち込まれるだろうから、苦慮の上に面子をかけて建造案を受諾した」という趣旨の話を述べているが〔、建造案を受諾するかどうかで苦慮したことは確実としても〔〔、大阪商船云々の件についての話の出所は不明である。また、建造に際しては日本郵船は2隻とも三菱長崎造船所で建造する計画であったが、日本海軍の意向もあって1隻は川崎造船所に発注されることとなった〔。日本郵船が川崎造船所に貨客船の建造を依頼するのは、1914年(大正3年)竣工の「八阪丸」(10,932トン)以来のことであった〔#郵船100年史 p.162〕〔#松井 p.34〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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