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櫛橋伊定 : ウィキペディア日本語版
櫛橋伊定[くしはし これさだ]

櫛橋 伊定(くしはし これさだ)は、戦国時代武将播磨国志方城主。
== 生涯 ==
名は『寛政重修諸家譜』に、黒田孝高室の父「櫛橋豊後守伊定」と記載されており、また櫛橋家〔伊定の孫である櫛橋定重の子孫によるもの。家系図と肖像画賛がある。〕に伝わる諸資料でも同様の記載がある。一方で『黒田家譜』などの他史料では名を則伊〔伊定の祖父も名を櫛橋則伊といい、錯綜の可能性もある。〕とするものも多く、この時期の櫛橋氏当主の事績には混乱が見られる。
天文10年(1541年)、父・櫛橋伊家が死去したのを受けて櫛橋家の家督を継ぐ。しかし、伊定はまだ若年であったため、初めは家臣の好田大炊助が執権となったという〔山下道雄「播磨の豪族 櫛橋氏」(『神戸と歴史』第23巻第3号所蔵)による。〕。
同時代史料に「櫛橋伊定」という武将の活動は見られず、代わりに櫛橋政朝(まさとも)の名が登場する。政朝は「豊後守」「豊後入道喜伴」〔「豊後守」の受領名は伊定も称したとされるが、政朝との関係は不明。〕を名乗っており、播磨守護赤松氏の家臣であった事はわかっているが、この政朝と伊定の関係性は不明。また赤松氏の系図に櫛橋伊則という人物もいるが、これは義理の縁戚に当たる人物であり〔、伊定とは別人である〔ただし『印南郡誌』では伊則と、伊定の別名である則伊が同一人物ではないかとしている。〕。
居城の志方城は当時東播磨に勢力を持った別所氏の勢力圏内にあって、1万石余りを領していた〔『印南郡誌』による。〕が、一方で西播磨の有力者・小寺氏とも縁戚関係を結んでおり、娘の一人・は、同国姫路城主でかつ同国御着城主・小寺政職の重臣だった小寺孝隆(のちの黒田孝高)の妻となっている。観音寺の墓碑によると伊定は天正元年(1573年)に没したとされる。
なお志方城は天正6年(1578年)に侵攻してきた織田軍と交戦して落城しているが、落城時の城主が誰であったかについては諸説あり、伊定とも伊定の子・政伊であったともいう。またその末路にも複数説が存在し、降伏して助命された、密かに遁走した、戦死・自害した、子と袂を分かって織田方についていたと文献によって一定しない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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