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欧陽脩[おうよう しゅう]
欧陽 脩(おうよう しゅう、欧陽修とも、1007年6月21日 - 1072年)は、北宋仁宗から神宗期の政治家、詩人・文学者、歴史学者。字は永叔、醉翁・六一居士と号す。謚号は文忠。唐宋八大家の一人。 == 生い立ちと政治上の事跡 ==
吉州廬陵(現在の江西省吉安県)の人とされるが、出生地は父の任地の綿州(現在の四川省綿陽市)である。数え年四歳で父を失い、以降随州で育った。正規の教育によらず自学自習で、1030年(天聖8年)進士に及第、包拯を継いで、開封府尹の任に就く。高官への途が開けたが、この環境で培われた独立不羈の思想は、彼の特質のひとつであり続けた。以後、館閣校勘等を歴任するが、1036年(景祐3年)、改革派の范仲淹を越権してまでも弁護したため、夷陵県令に左遷された。 約10年の地方勤務後、中央に返り咲き諌官に任ぜられ、范仲淹らと慶暦の改革を進めるも、仁宗の不興を買い、1045年(慶暦5年)には誹謗されて滁州(安徽省)の知事に再び左遷された。 数年を経て、再び中央に返り咲き、翰林学士等要職を歴任。1057年(嘉祐2年)権知礼部貢挙に上り、科挙試験を監督、蘇軾を見いだす。その後、枢密副使・参知政事(副宰相)に至り、蘇洵や王安石を登用した。王安石の新法を早くから支持していたが、実際に新法が実施されてみると、逆に青苗法に対してきびしい論考を張るなど、最も強力な反対派の1人になり、そのまま政界を引退した。引退翌年の1072年(熙寧5年)、隠棲先である潁州(安徽省)にて没した。〔伝記研究に小林義広 『欧陽脩 その生涯と宗族』 創文社、2000年、ISBN 978-4423450055〕
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