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毛利広鎮[もうり ひろしげ]
毛利 広鎮(もうり ひろしげ)は、周防徳山藩の第8代藩主。就隆系毛利家(徳山毛利家)8代。 == 生涯 == 第7代藩主・毛利就馴の次男として江戸今井谷の屋敷て生まれる。天明4年(1784年)6月10日、就寿と名乗る。次男であったが長兄の福原房純が家老の福原就清の養子となったため、寛政8年(1796年)9月24日、父の隠居により跡を継ぎ、12月18日には従五位下・大和守に叙任した。文政12年(1829年)5月15日、名を広鎮と改め、10月11日、日向守に叙任。藩政においては医学館の創設などを行なって文武を奨励し、民政にも尽くした。その藩政における尽力を幕府からも認められて、天保7年(1836年)4月、萩藩主・毛利斉元の内願を入れて城主格に任じられ、所領も4万石に加増された。 天保8年(1837年)12月7日、還暦を迎えた広鎮は、七男の元蕃に家督を譲って隠居した。慶応元年(1865年)12月16日、89歳という長寿をもって徳山にて死去した。 文化人としても優れており、歌集に『類題玉函集』がある。また、隠居後にもうけた十男の元徳(広鎮の生前に毛利本家へ養子入りした)をはじめ、息子の多くが幕末期の著名人として名を連ねた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛利広鎮」の詳細全文を読む
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