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毛利房裕[もうり ふさみち] 毛利 房裕(もうり ふさみち、宝暦9年(1759年) - 文化9年4月2日(1812年5月12日))は、長州藩一門家老である吉敷毛利家の10代。父は阿川毛利就貞。養父は毛利包詮。養子に毛利房謙。通称は峯松槌、筑後。 == 生涯 == 長州藩士繁沢就貞(後の阿川毛利就貞)の次男として生まれる。初名は礼行、のち長州藩主毛利斉房の偏諱を受け房直と改名する。享和4年(1804年)7月26日、毛利包詮の遺跡を相続して吉敷領主となる(同年4月19日には父・就貞が死去しているが、房裕自身はその跡を継がず、代わりに房嘉が養子となって家督を継いでいる)。翌文化2年(1805年)、家臣子弟の教育のために儒学者服部伝厳を学頭として郷校憲章館を設立する。憲章館からは、幕末に成瀬仁蔵らの人材を輩出した。 文化9年(1812年)4月2日没。享年54。家督は養子の房謙が相続した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛利房裕」の詳細全文を読む
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