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毛利氏の伊予出兵 : ウィキペディア日本語版
毛利氏の伊予出兵[もうりしのいよしゅっぺい]

毛利氏の伊予出兵(もうりしのいよしゅっぺい)は、1567年(永禄10年)から翌年にかけて行われた、安芸国戦国大名毛利氏伊予国への出兵である。
== 背景 ==
当時の伊予国は河野氏が中心として治めていたが、その力は伊予国全体に及ぶわけではなかった。宇和郡西園寺氏喜多郡宇都宮氏等の中小国人勢力が跋扈し、離合集散を繰り返す状況であった。永禄の頃は、河野氏と西園寺氏の西園寺公広が手を結び、それに対抗する形で、宇都宮氏当主・宇都宮豊綱大洲城を居城とし、土佐国西部を支配する土佐一条氏一条兼定が連携して、お互いに覇を競っていた。しかしこの勢力争いの構図の裏には、安芸国・備後国周防国長門国石見国出雲国を支配する大大名となっていた毛利氏と、豊後国を中心に豊前国筑前国筑後国肥後国へ勢力を拡大させていた大友氏の対立が大きく絡んでいた。
当時の河野氏当主は河野通宣で最初は大友義鑑の娘を妻としていた〔なお、通宣の兄・河野晴通は兼定の曽祖父にあたる一条房家の娘を妻にしていたとする『臼杵稲葉家文書』所収「河野家譜」の記述があり、事実とすれば河野・大友・土佐一条の三氏は当初は婚姻関係による盟約関係にあった可能性が高い(西尾和美『戦国期の権力と婚姻』P128より)。〕が、後に毛利元就の娘婿であった宍戸隆家の娘を妻としており(元就から見れば孫娘)、毛利氏は河野氏と姻戚関係にあり、また瀬戸内海の支配権を巡って村上水軍とも協力関係にあった(なお、近年の説として宍戸隆家の娘は最初は小早川隆景の養女として村上水軍の長で河野氏の重臣でもあった村上通康に嫁ぎ、後述のように通康が没した後に河野通宣と再婚したとする説がある〔西尾和美「厳島合戦前夜における芸予の婚姻と小早川隆景」「戦国末期における河野氏権力と来島通康」『戦国期の権力と婚姻』清文堂出版、2005年〕)。また、河野通宣は永禄5年(1563年)頃には中風に倒れて療養中で、以後の河野氏家中は来島通康や平岡房実ら重臣によって運営されていた〔西尾和美「戦国末期における芸予関係の展開と婚姻」『戦国期の権力と婚姻』清文堂出版、2005年〕。一方、大友氏は土佐一条氏とも姻戚関係にあり、土佐一条氏を大友氏が支えていた。また、豊後国と伊予国は海峡を隔てているものの、豊後水軍がその海域の支配権を握っており、輸送・通信が容易であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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