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毛利長秀 : ウィキペディア日本語版
毛利秀頼[もうり ひでより]
毛利 秀頼(もうり ひでより、生年不明 - 文禄2年閏9月17日1593年11月9日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名毛利十郎の子(斯波義統の子とする説もある)。
兄に斯波義銀(津川義近)、弟に津川義冬、賢入(蜂屋謙入かは不明)がいる。河内守。侍従。初名は長秀で、のちに秀頼と改名する。子に毛利秀秋、女子(京極高知妻)。
豊臣政権において侍従の官位と羽柴姓と豊臣姓を下賜されたため「羽柴河内侍従豊臣秀頼」ともいわれる。
== 略歴 ==
斯波義統の子とする説は、織田信友が起こした斯波義統暗殺事件の際に『信長公記』に登場する、毛利十郎毛利敦元(またはその子か)とも毛利良勝とも)に保護された義統の遺児がその後史書に登場しないことから、十郎が養育した義統の遺児の成長した姿が秀頼とするものである。
斯波義統暗殺からまもなく、織田信長の家臣「毛利河内」として、秀頼(長秀)は歴史の表舞台に登場する。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで戦功をあげ、この頃、赤母衣衆に抜擢されたという(『高木文書』)。
永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めにも従軍。石山本願寺との戦いでも戦功を挙げた。松永久秀の1度目の謀反、降伏後、差し出された多聞山城の受け取りと以後の城番も一時期務めている。
以後、尾張・美濃衆を率いて軍団を編成した織田信忠の配下になり、天正10年(1582年)2月の甲州征伐にも従軍。美濃国岩村城攻めや信濃伊那郡高遠城攻めで功があったという。
武田氏の滅亡後、信長から信濃伊那郡を与えられ、信濃国衆・坂西氏の居城であった下伊那郡の飯田城長野県飯田市)を拠点とする。長秀の伊那統治に関する史料は少ないが、伊那の安養寺・文永寺に狼藉を働いた事件を起こし(『信濃史料』)、また信長の命で信濃松尾城小笠原信嶺の暗殺を試みたという(『勝山小笠原家譜』)。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発し信長が横死すると、武田氏の旧臣などによる反乱の恐れから所領を捨てて尾張に逃亡し、飯田城は下条頼安により掌握される。
以後は羽柴秀吉の家臣として仕える。そして小牧・長久手の戦い九州平定小田原征伐などに参陣して軍功を挙げたため、再び信濃飯田城主として返り咲いて、はじめ7万石、太閤検地後に10万石を知行され大名となった。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では肥前名護屋に在陣するも、渡海はしなかった。
文禄2年(1593年)死去。遺領は、嫡男の秀秋を差し置き、娘婿の京極高知が大部分を継承した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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