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毛利高範[もうり たかのり]
毛利 高範(もうり たかのり、慶応2年12月5日(1867年1月10日) - 昭和14年(1939年)6月12日)は、子爵、貴族院議員、毛利式速記術の創始者。細川護立とははとこ。 == 生涯 == 肥後宇土藩主細川行真の次男として熊本に生まれた。幼名は侃次郎(なおじろう)。義理の叔母・美女子(細川立則の娘)が、豊後佐伯藩主毛利高謙の後妻となった縁で、高謙の養子となった。廃藩置県後に上京して、明治9年(1876年)に養父の死により家督を相続、明治17年(1884年)子爵となり華族に列せられる。明治21年(1888年)ドイツに留学、速記術を研究、明治24年に帰国し宮内省式部官に任命されるが明治26年に佐伯に帰り日本語速記の研究を続けた。明治40年(1907年)9月に子女の教育の為に再び上京し、大正2年(1913年)6月〔『官報』第269号、大正2年6月23日。〕に貴族院子爵議員(以後2回当選)となる。大正9年(1920年)7月毛利式速記術として発表、大正12年4月に毛利式速記学校を設立して教授した。大正13年に私財を投げ「毛利家奉公財団」を設立し、佐伯の教育や殖産振興に努めた。昭和7年7月、貴族院議員を辞職に際し、速記課に1,000円寄付した。昭和14年自邸で病没。墓所は芝高輪の東禅寺。戒名は速記院殿開新高範大居士。 妻は越後与板藩第10代藩主井伊直安の娘隆子である。長女の久子は黒田長和に、次女の千代子は近衛文麿に、三女泰子はその弟秀麿に、五女喜代子は筑波藤麿に嫁した。長男高亮は早世し、次男の高棟が家督を継いだ。子供らはみな速記術を習得し、泰子は西園寺公望の秘書だった原田熊雄に協力して「原田日記」を口述筆記した。 著書に『毛利式日本速記術』などがある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛利高範」の詳細全文を読む
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