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毛受勝介 : ウィキペディア日本語版
毛受勝照[めんじゅ]

毛受 勝照(めんじゅ/めんじゅう〔毛受の姓の読み方は「めんじゅ」「めんじゅう」または「めんじょ」「めんじょう」など。『佐久間軍記』では「免受」の漢字が当てられている。〕 かつてる、永禄元年(1558年)- 天正11年4月21日1583年6月11日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将柴田勝家の家臣。
は初名を照景、後に家照、勝照と改めた。異説として吉親とするものもある〔『明智軍記』など幾つかの史料で「吉親」とされているものがある。〕。通称は初めは庄助、荘介(荘助)で、後に勝介(勝助)となった〔史料によって、同音の漢字が置き換えられることはしばしばみられることで、同じ名前をさす。〕。
== 略歴 ==
尾張国春日井郡稲葉村の人。新居城〔在・愛知県尾張旭市城山町長池下。〕主水野良春の4世孫の毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、姓を「毛受」と改めたのが始まりと云う。
12歳の頃より織田氏の家臣・柴田勝家に小姓として仕え、後に小姓頭に取り立てられ、1万石を与えられるまでになった〔。
17歳の時、天正2年(1574年)の伊勢長島攻めに従軍した。激戦の中、勝家軍の馬印(騎標)が一揆勢に奪われる事態が起きたことがあった。勝家はこれを武門の恥として憤激し、敵中に入って討死しようとしたが、荘介はこれを諌止して、自分で敵陣に突入して見事に馬印の奪還。これを勝家に送り、再び敵中に突入した。勝家は大いに喜び、精兵を派して家照を救った。
勝家は荘介に偏諱を与え、自身の名前の一字「勝」の字を与えて、字を勝介に、あるいは諱を勝照と名乗るように申し渡した。または「勝」と「家」の字の両方を与え、勝介家照を名乗らせたとも伝わる。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍は羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟したが、勝介はこれを諫めて、退却して籠城するように進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて出陣。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御幣」を掲げて大軍を惹きつけた。この時、兄・茂左衛門は兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を扶養することを頼む。しかし義を好む母に対してそれは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否して、二人で進んだ。勝介は「我は柴田勝家をなり」と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の脱出の時間を稼いで、討死した。享年25〔。
秀吉はこの忠義を激賞して、北ノ庄城の落城後、毛受兄弟の首を母に返した。なお毛受の子孫は尾張徳川家に仕え、明治初期に再び姓を水野に戻したと云う〔。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「毛受勝照」の詳細全文を読む



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