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毛屋 武久(けや たけひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。黒田二十四騎の一人。 == 略歴 == 近江国神崎郡で田原長久の嫡男として生まれたが、織田信長と六角義賢の戦いで父が戦死したため、幼い虎千代は六角氏に仕えた書家建部賢文に養育された。元亀2年(1571年)、田原金十郎と名乗り和田惟政に仕えるが、同年のうちに惟政が織田信長に倒されたため、近江に戻って山崎片家に仕えた。近江の在地勢力である山崎氏は六角氏の配下であったが、情勢を鑑みて織田氏に転属した。 山崎片家が播磨国三木城攻め(三木合戦)に参加した際、敗走する味方の蒲生氏郷の軍勢を救出している。その後、柴田勝家の家臣となった金十郎は長篠合戦などに従軍し、越前国毛屋畠の一揆を鎮圧した際に勝家から300石を賜り、その地名に由来する「毛屋」の姓を与えられ、以降「毛屋主水正」と名乗るようになった。その後、賭博疑惑をかけられたため、毛受勝照の力添えを得て勝家の元を退去し、能登の前田利家に3年間80石の扶持をもらって匿ってもらう。天正6年(1578年)の有岡城の戦いには織田方の雑兵として参戦。天正8年(1580年)、摂津国の池田恒興に700石で仕える。天正11年(1583年)、池田家が美濃国大垣城主となった際に致仕し、佐々成政に仕えた。 天正16年(1588年)、肥後の統治に失敗し、国人一揆を引き起こした引責で成政が改易されると、他の佐々旧臣らと共に豊前中津17万石を与えられていた黒田長政に300石で仕官した。天正18年(1590年)、奥州会津42万石の大名となった蒲生氏郷は、若き頃の恩を理由に歴戦の士である毛屋主水を1万石で登用したいと打診したが、主水は「黒田家は唐入り(文禄・慶長の役)が決まっており、その前に退去することはできない。無事に帰ることができたら蒲生家に移籍する」として断っている。唐入りの戦場では経験を基にして数々の戦功を立て、無事に帰還したが、長政の妨害に遭い、蒲生家への転属は行われなかった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは長政の軍にて黒田家の旗奉行を務め、本戦に参加した。合戦に際して徳川家康に直に呼び出され、長い経験に基づく意見を聞かれている。また、関ヶ原の戦いにより加増を受け、都合700石となり、益田正親の組下に入れられた。大坂の陣にも高齢ながら従軍している。 元和6年(1620年)、大坂城の普請に当たる。元和8年(1622年)、菅正利の子・重利に「主水正」の称号を与えるため、長政の命により「武蔵守」を称することとなる。寛永3年(1626年)、子の武重に家督を譲る。 中風を患った後、剃髪して文賀と号した。寛永5年(1628年)10月26日、病を得て死去。75歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「毛屋武久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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