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民族派学生組織(みんぞくはがくせいそしき)では、特に日本における民族派学生組織について述べる。全学連(日共系、反日共系)や全共闘等の左翼学生によって席捲されていた1960年代の大学において、これらに対抗すべく結成された右派学生組織。 既成の右翼運動と主張が似ている点も多かったが、当時は「右翼」と言えば暴力団のシノギのことを指すように考える人も多かったので、これらと明確に区別すべく彼らは自らを「民族派」と呼んだ。 しかし、現在は、ほとんどの既成右翼団体が自らを「右翼民族派」と称している。 == 概要 == 戦後の冷戦構造の中で、反共を主な主張として掲げてきた既成の右翼運動と一線を画し、戦後世界の構造を米ソによる世界分割支配体制(=ヤルタポツダム体制)として批判した(反YP論)。「反YP論」の内容はセクト毎に若干違っていたが、核防条約(現在でいう核拡散防止条約)に対しては、「米ソによる核エネルギー独占を許さない」として挙って反対運動に結集した。また、西田幾多郎等の京都学派哲学の研究なども盛んに行われ、近代超克の視点等で既成右翼よりかなり理論深化されている。 民族派学生運動の運動のスタイルは、左翼の学生運動とほぼ同じであり、クラスオルグ、下宿オルグ、ビラ配、ステ貼りを展開し、スクラムを組んでジグザグデモも行い、機動隊と衝突した。彼らは当初は武装した左翼学生と素手で渡り合っていたが、負傷者が多かったためやがて武装するようになる。この際のスタイルも左翼学生とほぼ同じでヘルメットを被り顔はタオルで覆面し、軍手に竹ざおや鉄パイプを持った。 なお、電柱などに自らのセクトの主張を書いた紙を貼ることを、既成右翼は「ビラ貼り」と言うが、民族派学生は「ステ貼り(ステッカー貼りの略)」と呼ぶことが多い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「民族派学生組織」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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