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水沢城(みずさわじょう)は、岩手県奥州市水沢区に存在していた日本の城である。北上川西岸の胆沢平野中心部にある平城である。一国一城制導入後は要害として扱われた。別名:臥牛城・大休城。 == 歴史・沿革 == === 中世・近世 === * 「岩手県地誌要略」によると天喜5年(1057年)源頼義の築く所とされるが明確な記録が残っておらず築城年代・築城者は不明。現地の伝承では葛西氏家臣の蜂谷氏・佐々木氏・柏山氏などがあげられており、葛西氏の胆沢平野支配の拠点の一つであったと考えられている。 * 豊臣秀吉の奥州仕置により小田原征伐に参陣をしなかった葛西氏は改易。同地は木村吉清の領地となり、水沢城にはその家臣松田源太郎左衛門が配置された。これらの領土仕置を不満としていた旧葛西・大崎両氏家臣や領民は一揆をおこす(葛西大崎一揆)。しかし、この一揆扇動に伊達政宗が関わっている疑いがかけられ、秀吉の命令で政宗により一揆が鎮圧された。(新領地獲得の為に政宗が起こした行動であるとも言われている。これにより、政宗は領地であった先祖伝来の伊達郡や征服した会津地方が没収された。) * 政宗は一揆扇動の嫌疑は晴れたものの石高が減らされ米沢から旧葛西領・大崎領へ転封となった。天正19(1591年)年、水沢城を上杉景勝が修復。政宗の側近白石宗実が、福島県大森城から1万5000石をもって水沢城へと領地替えになった。宗実の死後、梁川宗清より養子をむかえ白石宗直が城主となる。 * 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで東軍徳川家康についた政宗は、戦いの長期化を見込み、同じ東軍南部領を抑えるべく和賀郡旧領主和賀義忠の嫡男和賀忠親を支援し岩崎一揆を起こす。しかし、関ヶ原の戦いが1日で終結したため一揆が露呈。政宗の家臣白石宗直が忠親を水沢へ匿い一揆勢を支援した事が家康に知れるところとなり、東軍勝利の際に政宗の禄高100万石加増の約束「百万石のお墨付き」を反故にし、忠親は仙台にて処刑、宗直は登米郡寺池城に転封となった。 * 慶長6年(1601年)、政宗は居城を岩出山城から仙台城に移し、水沢城は仙台藩の一部となった。その後、一国一城令に伴い城から水沢要害と名称がかわり、当初は代官が置かれていたものの、柴田宗朝、石母田宗頼と領主が変わった。寛永6年(1629年)伊達政宗の従兄弟にあたる留守宗利が入ると、以後は宗利を祖とする水沢伊達氏の支配が幕末まで続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水沢城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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