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本項は、中国明代に成立した長編小説で、四大奇書の一つである『水滸伝』の成立過程に関わる様々な論点についての概説である。 『水滸伝』は、北宋末期徽宗皇帝(在位1100年 - 1125年)の治世、山東の大沼沢「梁山泊」に集った、宋江ら宿星を背負う108人の盗賊の流転を描いた通俗(白話)小説である。物語の核は、史実で同時期に山東に横行した盗賊「宋江三十六人」の故事に由来するものの、その筋立ての多くは南宋代の都市で語られた講談で培われ、元の雑劇である元曲などの要素を吸収しつつ、明代中期(16世紀半ば)に、小説としての形が確立した。 現存最古の完成された小説テキスト(文献本)は、万暦38年(1610年)に杭州の容与堂という書店が発売した『李卓吾先生批評忠義水滸伝』(容与堂本と称する)であり〔高島1987、236頁。〕、小説として完成した年代はそれからややさかのぼった嘉靖年間(1522年 - 1566年)の頃が有力と推定されている。 ==作者の問題== 小説『水滸伝』の作者については、古くからいくつかの説が存在し、大まかに *施耐庵説 *施耐庵/羅貫中説 *その他の説 に分けられる〔高島1987、188-189頁。〕。その他の説とは施耐庵や羅貫中がペンネームで正体は別の作家だとする説や、グループで執筆が行われたため個人の作者が特定できないとする説、そもそも数多くの講談や雑劇を寄せ集めた作品であるため特定個人の作者はいないとする説などを含む。特定作者を推定する場合も、元になった話の骨格や各回を構成する逸話は、講談や雑劇等で培われていたことが前提の上であり、一から小説を書き上げた作者というよりは、多くの要素をまとめた編者ないし完成者としての役割が想定されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水滸伝の成立史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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