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水野勝種 : ウィキペディア日本語版
水野勝種[みずの かつたね]

水野 勝種(みずの かつたね、寛文元年5月9日1661年6月5日) - 元禄10年8月23日1697年10月7日))は、備後福山藩の第4代藩主。水野宗家4代。
第3代藩主・水野勝貞の長男で、母は瀬尾氏。正室は厩橋藩主・酒井忠清の娘である。通称は民部。初名は藤慶。官職は従五位下・美作守。
== 生涯 ==
福山で生まれる。寛文3年(1663年)に父の死により数え3歳で跡を継ぐ。寛文8年(1668年)に徳川家綱に初御目見し、延宝3年(1675年)に従五位下に任官して美作守を名乗る。
藩政の功績としては、沼隈町の磐台寺観音堂をはじめ、領内の神社仏閣の再興や造営を行ったことが挙げられる。天和元年(1681年)、越後騒動により断罪された松平綱国を預かる。元禄2年(1689年)および元禄5年(1692年)に奥詰を勤める。
元禄10年(1697年)に江戸で死去し、初代藩主の勝成らと同じく福山の賢忠寺に葬られる。法名は萬輝院殿前作州太守忠嶽全功大居士。
7人もの男子に恵まれたが、長男から六男まではいずれも早世、末子の勝岑(七男)が跡を継いだが、数え2歳で早世したため、水野氏による福山藩政は終焉を迎えた。、

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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