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水野忠分[みずの ただわけ] 水野 忠分(みずの ただわけ、もしくは、みずの ただちか、天文6年(1537年)-天正6年12月8日(1579年1月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。藤二郎(藤次郎、藤治郎とも)。水野忠政の8男〔『寛政重修諸家譜』(新訂6巻85項)より。乾坤院所蔵の「水野家法名一覧」(寛政2年の編纂で「東浦町誌・資料編3」所収)では「藤治郎」は忠政7男とされる。しかし、水野近守を忠政の子から除外する立場(「刈谷市史」第二巻、1994年)では、忠政の6男とする。〕といわれ、兄弟に水野信元、於大の方がいる。子に分長、重央、義忠、松平勝政、次女(松平家忠室)がいる。 == 人物 == 天文年間(1532年-1555年)、布土城(愛知県知多郡美浜町大字布土字明山)主であったと伝えられるが、その経緯は明らかではない。 織田信長配下として天文23年(1554年)の村木砦の戦い(信元を除く兄弟のうち緒川居住の可能性と年齢、信長直属であることから『信長公記』の「水野金吾」を忠分とする)や永禄元年(1558年)の石ヶ瀬川の戦い〔『寛政重修諸家譜』の水野忠重の項〕といった今川氏との戦闘に参加。しかしその後の動向は信長に従ったという以外不明である。ただ、佐久間信盛の居所であった山崎城(名古屋市南区呼続元町)下に屋敷を構えていたこと、兄・信元殺害後は緒川城下にも屋敷を持っていたことが『家忠日記』の記述より推測されるという。 天正6年(1579年)に、荒木村重の立てこもる摂津国有岡城攻め(有岡城の戦い)において戦死。享年42。墓所は愛知県東浦町の乾坤院。法名は盛龍院殿心得全了大居士。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水野忠分」の詳細全文を読む
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