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水野忠友 : ウィキペディア日本語版
水野忠友[みずの ただとも]

水野 忠友(みずの ただとも)は、江戸時代中期の旗本、のち大名老中三河大浜藩主、駿河沼津藩初代藩主。沼津藩水野家8代。
== 生涯 ==
享保16年(1731年)2月3日、大身旗本水野忠穀の長男として生まれる。水野家は元々信濃松本で7万石を食んでいたが、水野忠恒(忠友の従兄にあたる)が刃傷事件を起こして改易され、家督は忠恒の叔父・忠穀に相続は許されたものの、大名の身分を剥奪され、信濃佐久郡7000石(高野町知行所)の旗本として辛うじて名跡を保っていた。
忠友は父死去に伴い12歳で家督を相続し、家治小姓(元文4年(1739年))、小姓組番頭格(宝暦8年(1758年))、御側衆(宝暦10年(1760年))を経て、若年寄となり、明和2年(1765年)に三河で6000石の加増を受け都合1万3000石になり、三河大浜に城地を与えられ、再び大名に復活する。さらに駿河沼津2万石に移り、2度の加増を経て最終的に3万石となる。その際、信濃の所領は駿河に替地となった。
幕府では一貫して田沼意次重商主義政策を支え、若年寄側用人、勝手掛老中格を経て、正式な老中になる。天明6年(1786年)、意次失脚と同時に、忠徳と名乗らせ養嗣子としていた意次の息子(のちの田沼意正)を廃嫡とし、代わりに分家旗本の水野忠成(大和守)を養嗣子としたが、遅きに失した感は否めず、天明の打ち壊しを期に失脚して松平定信の指令で免職の憂き目にあう。
10年後の寛政9年(1797年)に再び老中(西丸付)に返り咲き、在職中の享和2年(1802年)9月19日に死去した。跡を養嗣子の忠成が継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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