|
水野 誠一(みずの せいいち、1946年7月8日 - )は日本の実業家、政治家。株式会社インスティテュート・オブ・マーケティング・アーキテクチュア代表取締役。株式会社西武百貨店社長、参議院議員(1期)、新党さきがけ政策調査会長(第4代)等を務めた。 父は文化放送、フジテレビジョン、産業経済新聞社の社長を務めた水野成夫。妻は女優の木内みどり。 == 来歴 == 東京都出身。学習院初等科、開成高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。高校の通学時、遠回りして頻繁に立ち寄るほど西武百貨店池袋店に不思議な魅力を覚え興味を持ち始め〔「特集 堤清二/辻井喬 最後まで堤清二でいてほしかった 水野誠一」『ユリイカ』 2014年2月号〕、将来はその百貨店を率いる堤清二の下で働きたいという思いを抱いた〔。そして大学時代のゼミの教授から「百貨店に行きたいのなら、三越でも伊勢丹でもいくらでも紹介するよ」と言われたが、未完の大器であるイメージにひかれ西武百貨店に入社した〔「ビジネス戦記 一座建立 前西武百貨店社長 水野誠一 中」『朝日新聞 夕刊』1995年11月25日〕。高輪プリンスホテルで開催されていた店外催事である高輪会の担当や、新都市開発センター(現:サンシャインシティ)への出向を経て、本部の販売促進部長を務めた〔。1984年、当時の山崎光雄社長から、「渋谷を活性化させるためには、新しい考えが必要」と説得され、当初は固辞するも最終的には要請を受け入れ営業経験のないまま渋谷店長に就いた。店長在任時には、時代に先んじた実験店舗としてSEED館、これから雑貨がおもしろいと直感しLOFT館の開発を手掛けた〔。 1990年、社長に就任した。時あたかもバブル景気はピークアウト化しつつあり、その状況に対応するため新規プロジェクトを取りやめ、軌道修正を試みている最中、医療機器事業部における架空取引事件やイトマン事件に絡んだ高額絵画取引のにせ保証書問題などが発覚。対応に追われた〔「ビジネス戦記 一座建立 前西武百貨店社長 水野誠一 下」『朝日新聞 夕刊』1995年12月2日〕。92年6月には代表取締役相談役であった堤清二と共にお詫びの記者会見を開き、辞表を提出するが、「君の責任ではない」と慰留された〔〔 『堤清二とセゾングループ 』P 450〕。同年7月、西洋フードシステム社長であった和田繁明が会長として百貨店に復帰し、経営改革を断行する。翌93年4月、和田の発案で全役員が降格する人事が行われた。水野はみんなと一緒の同じ降格だけというわけにはいかないと思い辞意を申し出た。しかし、「様子が見えるまで和田新社長をサポートとしろ」との話が出たため、副社長として不祥事の発覚した外商部門を担務した〔。その後かつて一緒に仕事に取り組んできた役員の非業の死や母の死に直面したこともあり、94年7月、気持ちの整理をつけるため非常勤取締役に退いた。 1995年、学習院初等科の同級生であった鳩山由紀夫の誘いを受け、鳩山が代表幹事を務める新党さきがけから、第17回参議院議員通常選挙に比例区から出馬し、初当選を果たした〔同年、高知県知事に再選された橋本大二郎も小学校の同級生である。〕。この政界入りに関しては周囲の誰もが反対する中、堤清二は「さきがけなら、面白いかもしれない」と賛意を示した〔「ビジネス戦記 一座建立 前西武百貨店社長 水野誠一 上」『朝日新聞 夕刊』1995年11月18日〕。翌1996年、鳩山や菅直人ら新党さきがけの所属議員の多くがさきがけを離党して旧民主党を結党した際はこの動きには参加せず、さきがけに残留した。鳩山らの離党により、国会議員5人の小政党に転落した新党さきがけで、政策調査会長を務める。1998年に新党さきがけが事実上解党した後も民主党には合流せず、参議院クラブを結成。参議院クラブには水野のほか、同じく新党さきがけに所属していた堂本暁子(のち千葉県知事)、椎名素夫、田名部匡省、松岡満寿男、岩本荘太らが参加した。1999年、参議院の院内会派であった参議院クラブに、無所属の衆議院議員であった中田宏や土屋品子が合流し、無所属の会を結党。 2001年、参議院議員の任期をわずかに残し、静岡空港建設反対を掲げて静岡県知事選挙に無所属で出馬したが、3選を目指して出馬した現職の石川嘉延知事に敗れ、落選した〔なお、同様に参院議員を辞職した無所属の会の堂本暁子は千葉県知事選挙に出馬し、当選。〕。落選後は、1995年に自身が設立した株式会社インスティテュート・オブ・マーケティング・アーキテクチュアの代表取締役の他、複数の企業の役職に就いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「水野誠一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|