翻訳と辞書
Words near each other
・ 水野裕子
・ 水野要
・ 水野誠一
・ 水野貴史
・ 水野貴広
・ 水野貴雄
・ 水野賢一
・ 水野輝
・ 水野輝昭
・ 水野辰彌
水野近守
・ 水野透
・ 水野達也
・ 水野達夫
・ 水野遵
・ 水野重上
・ 水野重仲
・ 水野重央
・ 水野重孟
・ 水野重明


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

水野近守 : ウィキペディア日本語版
水野近守[みずの ちかもり]
水野 近守(みずの ちかもり、? - 弘治2年3月20日1556年4月29日)〔『系図纂要』においては名を忠種とし、天文15年(1546年) - 元亀2年12月22日1571年1月17日)〕)は、戦国時代三河国武将。藤九郎。
== 来歴 ==
寛政重修諸家譜』では、水野忠政徳川家康の外祖父)の長男で、信元の兄であるが、父より早く没したとされるが、忠政は天文12年(1543年)に没しており、記述が矛盾する。『士林泝洄』では、常滑水野家水野為則の次男とされている。『刈谷市史』では、小川城主の本家を水野貞守-為則-賢勝-忠政とし、為則の次男で忠政の叔父にあたり、刈谷に分家したとする。また、子に守忠〔古文書に名が見られ刈谷周辺を領したとみられる(『刈谷市史』)。〕があったとし、守忠の養子に忠政の3子・信近が入ったという(『刈谷市史』)。
永正14年ごろから10年間ほどは刈谷を守備〔『刈谷市史』は刈谷城城主とする。〕していたらしい〔『刈谷市史』第2巻〕。昵懇だった連歌師宗長が、刈谷に来訪した際に近守を訪ねたりしており〔『宗長手記』(岩波文庫版)、『老葉集』「序」、「宇津山記」(『群書類従』27)〕、連歌に通じた教養人であったようである〔村井正章『碧海の歴史-安城市・刈谷市・碧南市・知立市・高浜市の歴史』松籟社、1985年〕。しかし、その他の具体的な行動については不明である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「水野近守」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.