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水野重良 : ウィキペディア日本語版
水野重良[みずの しげよし]

水野 重良(みずの しげよし)は、紀伊新宮藩紀州藩附家老)〔幕藩体制下では大名格の所領を有しながら陪臣として扱われ、明治維新までは大名とは見なされなかった。〕第2代藩主。官位従五位下淡路守は初め重種(しげたね)を名乗り、のち忠吉(ただよし)、次いで重良に改めたとされる。
正室は山川藩主・水野忠元の娘。子に重上(長男)、良全(次男)、重孟(三男)、重時(四男)、三宅良寛(五男)、娘(大関増周室のち八木高豊継室)、娘(一色直房正室)、尼となって鎌倉高松寺を開山した日隆尼常栄寺を開基した日祐尼などの娘多数〔『寛政重修諸家譜』には5男6女が記録されている。〕。
== 生涯 ==
慶長元年(1596年)、水野重央の長男として生まれる。慶長12年(1607年)には初めて大御所徳川家康に拝謁し、家康の命により第2代将軍徳川秀忠に近侍する。
慶長20年(1615年)1月27日、従五位下淡路守に叙任。同年5月の大坂夏の陣では小姓組に列して従軍し、5月7日の大坂城落城に際しては桜門で敵一人を討ち取っている。家臣・渡辺久太夫も首級を得ており、本陣で首実検に備えたところ、賞誉の言葉を賜ったという。戦後、近江国内に知行所2,000石を賜り、元和9年(1623年)には家光付きの旗本となった。
元和7年(1621年)11月に父が死去したとき、本来ならばすぐに父の跡を継ぐはずであったが、他の水野氏が諸侯として正式に藩主として認められているのに対し、新宮藩主水野家は紀州藩附家老陪臣)のため藩主とは認められていなかったことに不満を抱き、弟の定勝に家督を継がせようとした。また、幕府に直臣として認めてもらうように運動したという。しかしこれは認められず、元和9年(1623年)6月の家光の上洛に随行していたところ、山城国竹田で秀忠と家光によって説得され、元和9年(1623年)6月に約2年の空位の後に家督を継ぎ〔小山〕、近江国内の知行所を返還した。なお、この際に和州包友の小脇差伏見にあった豊臣秀長の旧邸を拝領しており、この旧邸は和歌山に移築されたという。
万治元年(1658年)9月25日に長男の重上に家督を譲って隠居し、真休を号する。寛文8年(1668年)10月28日に死去した。享年73。法号は本廣院殿真休常栄日輔大居士。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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