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永島慎二 : ウィキペディア日本語版
永島慎二[ながしま しんじ]

永島 慎二(ながしま しんじ、1937年7月8日 - 2005年6月10日)は、日本漫画家。本名は永島 眞一(または真一、ながしま しんいち)。東京都出身。本名は、眞一だが、出版社のミスで慎二となりその後は慎二を使用。愛称はダンさん。〔朝日ソノラマから刊行されたサンコミックス版の短編集は愛称にちなんで『ダンさんコレクション』と銘打っている。〕
長男はギタリスト永島志基
== 生涯 ==
東京都北区滝野川生まれ。生家は雑貨商であった。父を戦争で失い、空襲で家を焼かれる。小学校3年の頃から漫画家になることを志望。目黒区立第一中学校では総番長を務め、高校3年生を相手に暴行傷害事件を起こしたこともある〔『COMIC BOX』1983年11月・12月号、43頁。〕。同校では高野慎三の兄が同級生であり、兄を通じて永島の悪名を聞いていた高野は青林堂に入社後、永島から文句をつけられるのを恐れて変名を使っていた〔。
同校を2年で中退〔自主的に行かなくなっただけであり、後日馬小屋の二階に住んでいた頃、中学の先生が訪ねてきて、復学するよう説得している。〕後、家出して酒屋や洗濯屋、豆腐売り、自転車修理工など十を超える仕事を転々としながら漫画を描いていたがどれも長くは続かず、半年後に行き詰った。原稿を抱えて街を彷徨っていた(本人談)ところ、偶然再会した目黒区立第一中学校の同級生に支援され、祐天寺近辺の馬小屋の二階に住まいつつ、昼は豆腐や納豆を行商し、夜は漫画を描き、時折カット描きの稿料を得る生活を続けた。西品川で揚げ物屋を開業した母親ら家族も、反対しつつも支援してくれた。雨天が続き豆腐の行商ができない日が続くと、水しか飲まない日が数日続いたが、祐天寺から現在の山手通りを徒歩で南下し、時には倒れたりしながらも西品川に辿り着いて、店の揚げ物の残りを貰ったり、妹が家族に内緒で誤魔化した店の売り上げの一部を貰ったりしていた。
1952年、『さんしょのピリちゃん』で漫画家デビュー。このときの原稿料は、中卒の初任給が4000円の時代に6000円であった〔70頁で描き上げた原稿を飯田橋鶴書房に”置いてきた”ところ、後日連絡の葉書が届き、64頁の単行本として出版。6000円のうち3000円が前金で支払われ、出版後に残り3000円が支払われた。〕。初夏のその月のうちに”馬小屋の二階”を引き払い、実家に凱旋したが〔この前後で増えていた荷物は、漫画の単行本一冊だけだったと語っている。〕、「さんしょのピリちゃん」出版の半月前の七月下旬に、兄の成功を誰よりも喜んでいた前述の妹を事故(友人と行った多摩川で水死)で亡くす。
その後、トキワ荘に出入りするようになり手塚治虫の面識を得て、手塚のアシスタントとなる。のち、独立して杉村篤(当時の筆名はコンタロー)、石川球太深井国(当時の筆名は深井ヒロー)らと「むさしのプロダクション」を結成。
その後、同じ国分寺市に住まっていた、辰巳ヨシヒロさいとう・たかをら「劇画工房」のメンバーと交際。「劇画工房」分裂後は、さいとうプロダクションに入社し、絵柄が劇画風に変わる。また、新宿フーテン生活を経験。のちにその体験を題材にした漫画「フーテン」を発表している。
1961年に発表した『漫画家残酷物語』は、漫画業界の裏側に迫った作品で、永島の出世作となった。『COM』や『ガロ』などの漫画誌に数々の作品を発表し〔「都会派」と呼ばれた。双方に発表していた数少ない作家の一人である。1996年に放送された長井勝一ETV特集 の追悼番組「マンガが時代を映してきた〜60年代から90年代へ〜第1回 カウンター・カルチャーの旗手たち 『カムイ伝』の衝撃」(2014年10月11日再放送)の中で、手塚治虫からどうして『ガロ』に描いているんだと聞かれ、長井に借金があるから描いているというとその瞬間に『ガロ』に対する敵対心がなくなったという。なお、この番組では永井が大好きだという「かかしがきいたかえるのはなし」が紹介された。 〕、独特の画風で“青年漫画の教祖”と呼ばれるようになった。また、1964年から1966年までは虫プロダクションに所属しており、テレビアニメ『ジャングル大帝』などで主に演出を担当した。
1972年、『花いちもんめ』ほかにより、第17回(昭和47年度)小学館漫画賞受賞。
1974年、『漫画のおべんとう箱』により、第3回(昭和49年度)日本漫画家協会賞優秀賞受賞。
1980年11月16日、大麻不法所持で逮捕〔『朝日新聞記事総覧』84頁。〕。1980年代以降、漫画家としては半隠居状態だった。結婚後、阿佐ヶ谷に在住し、1970年頃にある若者にこっぴどく負かされたのがきっかけ(本人談)となり、将棋の駒作りを趣味にしていた。名産地である山形県天童市に出かけたり、同好の士の駒作りの会に参加したりなどしていた。将棋の駒にとどまらず物作りを趣味とし、愛煙家でありダンヒルパイプを愛用していたが、自作のパイプも制作していた。
2005年6月10日、慢性心不全のため死去。享年69(満67歳没)。長年糖尿病を患っていて、2000年からは西荻窪へ転居し人工透析を受けていた。
墓所は鎌倉瑞泉寺。戒名は「永閑院愼高美久居士」(高美久=コミック)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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