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永暦帝(えいれきてい)は、南明の第4代(最後)の皇帝。諱は由榔(ゆうろう)。廟号は昭宗(しょうそう)。帝号は存在しないが、日本では在位中の元号永暦より一般的に永暦帝と称される。 嫡母(父の正妻)は王太后、母は馬太后、妻は王氏(王太后の一族)、子は太子の朱慈煊ら数人がいる。 == 生涯 == 桂端王・朱常瀛(万暦帝の第7子)の第4子として生まれ、明朝最後の皇帝・崇禎帝の従弟に当たる。 崇禎年間に永明王に封ぜられた。1643年(崇禎16年)、明末の混乱に際し、父と共に広西へ避難、その直後父と兄である朱由𣜬が薨去したため桂王となった。1644年(崇禎17年)、李自成の北京入城により崇禎帝が自殺すると、唐王朱聿鍵(後の隆武帝)や福王朱由崧(後の弘光帝)と協力して明の遺臣による南明政権を樹立、隆武帝が清軍に捕らえられると肇慶(現在の広東省)に逃れて皇帝に即位し、永暦と改元した。 その後は鄭成功の協力を得て、広東省から広西、貴州、雲南地区を勢力下においたが、やがて清軍の攻勢を受け支配地域は縮小、1650年(永暦4年)に桂林が陥落すると華南各地を放浪、1659年(永暦13年)にはビルマ(現在のミャンマー)に逃れているが、この時永暦帝に従った家臣はわずか650人程度に過ぎなかったと言われるまで勢力が縮小している。ビルマにのがれた後も清朝に投降した呉三桂の攻撃を受け、清軍の勢威を恐れたビルマ王ピンダレによって永暦帝は清軍に身柄が引き渡され、同年に一族共に雲南で刑死、明の皇統は断絶した。 永暦帝はキリスト教に造詣が深く、ローマ教皇にも使節を派遣したとされるが、明末の衰退期の使節派遣への政治的意義は非常に限定的であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永暦帝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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