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永楽通宝[えいらくつうほう] 永楽通宝(えいらくつうほう)は、中国の明朝第3代皇帝・永楽帝の代、永楽9年(1411年)より鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易で大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭、永銭などと呼ばれた。 ==概要==
形状は円形で、中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「永樂通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。このような銭の形状(いわゆる方孔円銭)は、中国古代の半両銭に由来するものとされている〔柿沼陽平『中国古代の貨幣: お金をめぐる人びとと暮らし』(吉川弘文館、2015年)〕。材質は銅製、貨幣価値は1文として通用したが、日本では天正年間以降永楽通宝1枚が鐚銭4文分と等価とされた。 慶長13年(1608年)には通用禁止令がだされ、やがて寛永通宝等の国産の銭に取って代わられた。しかしその後も永という仮想通貨単位すなわち永一貫文=金一両であり1/1000両を表す永勘定が年貢の取り立てに引き続き用いられるなど、長く影響を残した(永1文は4文前後)〔三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年〕。 なお、永楽通宝は明では流通しておらず、もっぱら国外で流通していたと考えられてきた。明では初代洪武帝のときに銭貨使用が禁じられ、すべて紙幣(後には銀)に切り替えられていた(洪武帝は中国統一前には支配地域の一部で大中通宝「銅銭」を発行しており、統一後も洪武通宝「銅銭」を発行していた。その後も宣徳通宝・弘治通宝・嘉靖通宝が発行されている)。一方、日本では貨幣経済が急速に発展しており、中国銭貨への需要が非常に高まっていた。そのため、日本との貿易決済用銭貨として永楽通宝が鋳造されることとなったというものである。これは永楽通宝が中国ではほとんど現存せず、日本でのみ発見されていたことによる説である。ところが、近年になって日本の永楽通宝の中には日本で鋳造されたものが相当数含まれているという説が出されたことでその前提に疑問が出され(後述)、また永楽9年(1411年)に浙江・江西・広東・福建の各布政司で永楽通宝の鋳造が命じられている事実(内陸の江西や日本との関係の薄い広東でも鋳造されている)〔『続文献通考』巻10「銭幣考 四」。〕や、景泰7年(1456年)に北京に大量の私鋳の永楽通宝が持ち込まれていたことが発覚する(北京の市場で官鋳による永楽通宝が通用していたことが私鋳銭混入の前提となる)〔『明実録』景泰7年7月甲申条〕など、近年では少なくても15世紀後半の段階では永楽通宝は明国内でも流通されていたと考えられている〔黒田明伸「東アジア貨幣史の中の中世後期日本」(鈴木公雄 編『貨幣の地域史』岩波書店、2007年 第1章所収)〕。近年では、さらに広範囲に渡って使用されていた可能性も指摘されている。2013年には、アフリカのケニアから永楽通宝が出土している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永楽通宝」の詳細全文を読む
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