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永沼 秀文(ながぬま ひでふみ、1866年11月10日(慶応2年10月4日) - 1939年(昭和14年)2月1日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧8期。 栄典は正四位勲二等功三級。最終階級は陸軍中将。 日露戦争において騎兵挺進隊隊長を務めた、いわゆる永沼挺進隊の指揮官である。 ==生涯== ===陸軍軍人=== 父は仙台藩藩士永沼秀実である。士官学校旧8期を卒業し、騎兵少尉に任官した。永沼は軍務局副課員、同課員を務めたほかは騎兵の実施部隊に属し、また陸軍騎兵実施学校戦術学生時代に校長の秋山好古から教育を受けた〔『日本騎兵八十年史』44頁〕。秋山は騎兵挺進活動について教えているが、騎兵挺進活動とは「小部隊で主力から遠く離れ敵の後方に行動し、主要施設の破壊や司令部等の襲撃に任ずる部隊」を意味する〔『日本騎兵八十年史』「日露戦争における挺進騎兵」〕。日清戦争時の永沼は宇品運輸通信部員として後方支援を行っている。1902年(明治35年)11月、騎兵中佐に進級し、弘前に所在する騎兵第八連隊の連隊長に就任する。永沼はこの時期に騎兵挺進活動の研究に励んだ。 在職のまま日露戦争の開戦を迎えるが、騎兵第八連隊の属す第八師団は総予備として初期の戦闘には参加せず、戦場に至ったのは遼陽会戦の後である。1904年(明治37年)12月、永沼は満州軍総司令部に騎兵挺進隊による奉天以北の線路爆破を提案するが、総参謀長児玉源太郎はこの提案を受け入れなかった〔『日露戦争 5』「黒溝台」〕。しかし第二軍司令官の奥保鞏が賛意を示し、永沼騎兵第八連隊は第二軍隷下の秋山支隊に転属となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永沼秀文」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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