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永田七恵 : ウィキペディア日本語版
佐々木七恵[ささき ななえ]

佐々木 七恵(ささき ななえ、本名:永田 七恵1956年2月8日 - 2009年6月27日)は昭和時代に活躍した女子陸上競技(主に長距離走マラソン)選手である。1984年ロサンゼルスオリンピック女子マラソン日本代表。
岩手県大船渡市出身。岩手県立住田高等学校日本体育大学卒業。大卒後は教育職を経て、瀬古利彦らがいたヱスビー食品に所属。増田明美らと共に、初期の日本女子マラソン界を代表する選手の1人だった。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===
5男2女の7人兄弟の末娘として生まれたことから七恵と命名される。中学時代はバレーボール部に所属し、住田高時代から兄の影響で陸上競技を始める。日体大時代までは中距離の選手としてインカレ等で活躍し、大学卒業後マラソンに進む。1979年11月に始まった第1回大会の東京国際女子マラソンが初マラソン。その後徐々に記録を伸ばし、日本の第一人者と言われるようになる。
当時、七恵は岩手県で県立学校(岩手県立盲学校→岩手県立盛岡第一高等学校)の教員をしていたがさらなる記録向上をめざし学休期に上京しては、瀬古利彦の師である中村清の指導を受けるようになる。その甲斐あって、1981年4月のボストンマラソンでは日本最高記録を樹立した〔 〕。しかし、その直後日本で出場したトラックレースで成田高校の在学生であった増田明美に何度も水をあけられて衝撃を受ける。これをきっかけに中村の指導をさらに熱心に受けるようになった。
中村の指導は厳しいものであったが、まもなく成果が現れる。1982年5月のスポニチ陸上5000mでは初めて増田を破って優勝。6月にはニュージーランドクライストチャーチマラソンで再び日本最高記録を樹立し、2月に増田に奪われた首位の座を奪い返した。自信を付けた佐々木は、2年後の1984年8月に開催されるロサンゼルスオリンピック女子マラソン代表をめざし、陸上競技に本格的に取り組む決意を固め、1982年7月7日付で教員を辞職し、中村のいるヱスビー食品陸上部に入部した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐々木七恵」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nanae Sasaki 」があります。



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