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永田市郎 : ウィキペディア日本語版
イチローナガタ

イチローナガタ本名:永田市郎、1943年2月5日 -)は、アメリカ合衆国在住の元日本人写真家。1974年に渡米し、日米両国の銃器雑誌向けの写真家として活躍中。

== 人物 ==
1943年、鹿児島市生まれ。大家族の末っ子として育つ。少年期にカメラと銃に興味を持ち、モデルガンを改造するなどして過ごした〔MGCの小林太三との対談記事にて。「改造できるモデルガンにしか興味がなかった」というイチローに対し、小林は「悪いヤッチャ」と答えている。〕。上京し東京綜合写真専門学校卒業後〔モデルガンチャレンジャー誌におけるインタビューでは真剣に通わず卒業に至ってないとも答えている。〕、コマーシャル・フォトグラファーとなる。
結婚し国内で生活していたが、日本社会の現状に失望し、施設児童の報道写真を兄の依頼で撮影し、報酬として受け取った100万円を元手に1974年に米国に住む兄弟を頼って渡米。
皿洗い等をしながらカメラマンとしての修行を重ね、月刊Gun1976年12月号より、アメリカから実銃レポートの寄稿を開始〔別冊Gun 素晴らしいGunの世界〕。当初は本名の永田市郎で活動を行っていた。ニックネームはイーチ。月刊Gunではケイ(ウエスタンアームズ代表国本圭一)と共に人気を博した。銃そのもののレポートの他、テッド・アライやボブ・チャウといった人物にスポットを当て紹介するなど、現地の交友関係を生かした新たな記事スタイルを確立した。
1980年頃にコンバットマガジンへ移籍。1980年にS&Wアカデミーに入り修了認定を受ける〔モデルガンチャレンジャー誌に免状写真あり。〕。アメリカ永住権を獲得し、「優秀なガンリポーターは優秀なガンシューターであるべき」との持論を展開し、ビアンキカップなどの射撃競技に出場するようになる。競技における成績はPPCでグランドマスター獲得、IPSCでAクラス入り、ビアンキカップ最高8位など。
1981年モデルガンメーカーコクサイとアドバイザー契約を結び、アメリカで自身が所蔵するFN ブローニングM1910S&W回転式拳銃の取材に協力し、それまで他社コピー品を販売したり玩具然とした二流品のイメージのあったコクサイ製品のリアルさ向上に貢献した。
1983年にはモデルガンメーカーMGCとアドバイザー契約を結ぶ。その後モデルガンチャレンジャーに移籍。大ヒット作となったMGC ガバメント(GM5)をベースに自身が競技で使用するマッチカスタムをモデルガンとして製品化し、シューターワンを使用したシューティングマッチのブームの先導役となり一時代を築いた。1985年のモデルガンチャレンジャー廃刊後、再びコンバットマガジンに戻る。アメリカで流行したペイントボールを撃ち出すCO2エアガンを使用したサバイバルゲームの紹介記事を執筆し、日本におけるエアソフトガンによるサバイバルゲームを流行させる要因のひとつとなった。
その後も活動を広げ、海外の実銃メーカー、日本国内の遊戯銃メーカーなどの広報写真の撮影を担当し、銃器フォトグラファーとしての地位を確立した。
2008年にはスティールチャレンジのシニアクラスでチャンピオンとなった〔"Ichiro Nagata is famous for his Firearm Photography and is also a real active shooter in the Bianchi Cup and was the 2008 Steel Challenge Super Senior Champion." from http://www.hipowersandhandguns.com/〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イチローナガタ」の詳細全文を読む



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