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永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝らが京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。近年では、他に「永禄の政変」と呼称されることもある〔高梨真行は2004年に発表した「永禄政変後の室町幕府政所と摂津晴門・伊勢貞興の動向」において、永禄5年(1562年)3月、当時、洛中を支配していた三好氏が、畠山氏・根来寺衆徒の連合軍に敗北して以来の諸政争を、伊勢氏が関係している古文書を中心にして論じた。この論文中の最後(48ページ)で、永禄8年5月19日に起きた三好三人衆による足利義輝殺害事件を ''足利義輝の殺害(永禄の変)''と記述する。当記事においてもこの呼称に従う。また天野忠幸は、2012年「総論 阿波三好氏の系譜と動向」にて、この事件を ''近年、「永禄の政変」と称される事件である'' と述べる。〕。 なお松永久秀がこの事件の主導者であるという見解が広く巷間に流布しているが、久秀はこの事件が起こった際大和国にいて直接には関与していない〔天野(2014)・250頁〕。 == 事件の様相 == *文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。 義輝側は三好・松永らの謀叛に備え、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、事件前日の永禄8年(1565年)5月18日には、義輝は難を避け京を離れるためにいったん御所を脱出している。しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。 いっぽう三好・松永らは、御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、翌5月19日に清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた(後述のように訴訟の取次自体は事実だったとする説もある)。奉公衆の進士晴舎(しんじ はるいえ)が訴状の取次ぎに往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。 将軍方の応戦は激しく、一色淡路守(実名不詳)以下十数名が三好方数十人を討ち取った。その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹し、義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。治部藤通の弟福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取り、剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ〔上泉信綱にも兵法を学んだとする説もあるが、義輝が信綱に兵法を学んだとする記述は史料上では確認できない。〕義輝自身も、最初は薙刀で、次に刀を振るって奮戦したという。〔この時の奮戦が、後の時代に「足利家に伝わる数多くの銘刀を床に突き立て、これを取り替えながら次々に敵兵を斬り倒し、三好方を大いに恐怖させた」(『日本外史』)と派手な演出がなされ、現代において義輝が「剣豪将軍」と称される要因となった。〕事件の当日に在京していた山科言継の日記『言継卿記』の五月十九日の条では、戦いが行われ、奉公衆が大勢討ち死にし、同日の午の刻の初め頃(昼頃)には将軍も「生害」されたと伝えている〔少なくとも『言継卿記』の同日の前後を読んだ限りでは将軍が「自害」したという記述は、この書には見られないようである。「生害」とは単純に「殺された」という意味。他者に殺害された場合にも自害した場合にも用いられる。ただし後の時代の信頼性の少々劣る記録になら、松永貞徳の『戴恩記』などの、御所を囲まれて切腹したというものや、『常山紀談』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようにはなる。〕。 しかし、多勢に無勢の中、昼頃には義輝主従全員が討死し、生母の慶寿院(近衛尚通の娘で12代将軍足利義晴の正室)も自害した。義輝正室(近衛稙家の娘)のほうは近衛家へ送り届けられたが、義輝の寵愛を受け懐妊していた側妾の小侍従(進士晴舎の娘)は殺害された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永禄の変」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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