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永見 長良(ながみ ながよし、寛永9年7月23日(1632年9月7日) - 元禄14年4月5日(1701年5月12日))は、越前松平家の一族。父は越前北ノ庄藩主・松平忠直。幼名は熊千代。母の身分が低かったために祖父・結城秀康の母方の実家である永見氏を名乗った。通称・大蔵。 == 来歴 == 父の改易後に流罪先の豊後国で生まれる。慶安4年(1651年)、兄・永見長頼とともに異母兄である越後高田藩主・松平光長から2,000石ずつ与えられる。ところが首席家老・小栗美作が行った蔵米制に反発して両者の間に対立が生じた。 延宝2年(1674年)、光長の嫡子・綱賢が男子なく死去した。光長は既に60歳で他に男子はなく、急ぎ世継を定めねばならなくなった。世継の候補は光長の異母弟である長良と既に病死していた長頼の遺児・永見万徳丸、そして光長の妹を母とする小栗美作の次男・大六であった。評議の結果、15歳の万徳丸を世継とすることで決まった。万徳丸は元服して将軍・徳川家綱から一字をもらい綱国と名乗り、三河守に任官した。 綱国が世継と決まったが、家中では小栗美作が大六を世継にしようと企んでいるとの疑惑を持たれた。これに対して反小栗派の重臣が長良を押し立てて藩士890名を糾合(「お為方」)、延宝7年(1679年)正月、長良らは光長に目通りして同志890人の誓紙を差し出し、小栗美作の悪政を糾弾して、小栗の隠居を要求した。優柔不断の光長はお為方の強硬さに押し切られて小栗の隠居を命じる。小栗はやむなく隠居を願い出て大六に家督を譲るが、長良らは収まらずさらに騒ぎを大きくした。事態を収拾できなくなった光長は大老・酒井忠清に裁定を訴え出た。酒井忠清は両派に和解を申し渡すが長良らは納まらず、遂に10月、幕府は長良とその一派を人心を惑わした罪で大名家へのお預けの処分を下され、長良も長州藩毛利家に預けられた。 ところが、延宝8年(1680年)5月、将軍・家綱が死去。徳川綱吉が第5代将軍に就任した。綱吉は一連の騒動の再調査を命じた。再審は同年12月に始まり、小栗美作や大名お預けとなった長良らに江戸出府が命じられた。長良は小栗と江戸で対決。長良は小栗の悪政と専横(贅沢で人心を堕落させ、豪華な屋敷をつくったことなど)を言い立て、更に子の大六を世継にしようと企てたと主張。小栗はこれらの攻撃に雄弁に反駁した。年を越して詮議は続いた。延宝9年(1681年)6月、長良や小栗らが江戸城に召喚され、将軍・綱吉の親裁が行われた。短い質疑の後、綱吉は裁定を下した。小栗美作とその子・大六は切腹、長良もまた同じ派閥の荻田本繁と共に八丈島に流罪、高田藩は改易処分とされた(越後騒動)。 流人で庶子と言えども系譜上は徳川家康の男系曾孫にあたる人物であり八丈島でも厚遇を受けたと言われている。だが、元禄14年(1701年)に同島を襲った飢饉は、流人を含めた島民の大半が死亡するという歴史的な大飢饉であった。このような事態の中で長良もまた食料を得る事も出来ずに、金が詰まった千両箱を抱えながら萩田と共に餓死したといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永見長良」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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