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永見 柳二(ながみ りゅうじ、 - 1951年)は、日本の脚本家である。永見 隆二(同訓)とも名乗った。 == 人物・来歴 == 1931年(昭和6年)、オリジナル脚本を書いた映画『○○自慢』が東京の松竹蒲田撮影所で製作され、同年8月15日に公開されて、永見 隆二の脚本家デビューとなった〔#外部リンク欄の日本映画データベース「永見隆二」の項のリンク先の記述を参照。二重リンクを省く。〕。翌1932年(昭和7年)8月26日には、オリジナル脚本を成瀬巳喜男が監督した『チョコレートガール』が公開されている〔。 1934年(昭和9年)には、永見が書いた原作が日活多摩川撮影所に採用され、これを倉田文人が脚色、監督した『紅い唇紅い頬』が同年8月15日に公開された〔。同年、ピー・シー・エル映画製作所(P.C.L.)に入社、永見 柳二を名乗り、オリジナル脚本を木村荘十二が監督し、榎本健一が主演した『エノケンの魔術師』が同年10月25日に公開された〔#外部リンク欄の日本映画データベース「永見柳二」の項のリンク先の記述を参照。二重リンクを省く。〕。1937年(昭和12年)、P.C.L.が東宝映画に統合され、同社の東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で引き続き脚本を書いた〔。 1939年(昭和14年)、東宝映画から日活多摩川撮影所に移籍し、「永見隆二」名義に戻し、原作山岡荘八の小説の映画化、『純情の眸』を手がけ、同年5月18日に同作は公開された〔。1942年(昭和17年)、日活多摩川は大映に統合されたが、引き続き大映で脚本を書いた〔。 1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦の終戦を迎え、永見は1947年(昭和22年)4月22日に公開された新東宝のエノケン映画『九十九人目の花嫁』の脚本で復帰した〔。同作は、東和商事(現在の東宝東和)宣伝部長から東宝映画、新東宝のプロデューサーへと転進した筈見恒夫のプロデュース作である〔。1948年(昭和23年)2月21日に公開された『大学の門』は、筈見と、筈見のもとで洋画のポスターを描いていた野口久光との共同プロデュース作である〔。同作が永見の遺作となった。 1951年(昭和26年)、死去した。1954年(昭和29年)10月12日に公開されたエノケン映画『エノケンの天国と地獄』は、永見の原案を山下与志一が脚本にしたものであった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永見柳二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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