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永見長頼[ながみ ながより] 永見 長頼(ながみ ながより、寛永7年1月20日(1630年3月3日) - 寛文7年8月16日(1667年10月3日))は、江戸時代前期の武士。越前松平家の一族。松平忠直の子。幼名は松千代。祖父・結城秀康の母方の実家である永見氏を名乗った。通称・永見市正、東市正、永見東市。同母兄弟に永見長良。異母妹に勘(小栗正矩の妻)、異母兄に松平光長など。子に松平綱国。 == 生涯 == 寛永7年(1630年)、松平忠直の子として誕生。母は平賀治部左衛門娘。誕生地は、越前北ノ庄(福井)藩主であった父・忠直が不行状により隠居謹慎後に配流された豊後国であった。 母の身分が低かったために祖父・結城秀康の母方の実家である永見氏を名乗った。慶安4年(1651年)、異母兄である越後国高田藩主・松平光長の元へ引き取られ、3千石を与えられる。 寛文7年(1667年)、死去。 長頼の死後、越後高田藩で跡継ぎ騒動が起こり、長頼の遺児・万徳丸が光長の養嗣子となり家督を継いだが(後の松平綱国)、藩内に以前よりくすぶっていた不満と対立によるお家騒動が勃発(越後騒動)。江戸幕府の裁定と処理がもつれた末に、他藩にまで多くの連座処分を伴いつつ光長と綱国は改易され、のちに光長により綱国は廃嫡された。
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