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汎スカンディナヴィア主義 : ウィキペディア日本語版
汎スカンディナヴィア主義[ひろしすかんでぃなう゛ぃあしゅぎ]

汎スカンディナヴィア主義(、、、)とは、北欧諸国デンマークノルウェースウェーデン)、特に「ノルマン人」の連帯と統一を目指す思想運動である。北欧諸国が、欧州列強の脅威に囲まれる中で、北欧の団結と統合を体現化したナショナリズムの昂揚である。この時代、知識人たちが好んで用いた言葉、「ノルデン(Norden)」は、汎スカンディナヴィア主義の概念となった。この「ノルデン」という言葉は、現在でもスウェーデンの国歌の一部分として用いられている。
== 概要 ==
元々は、1829年に行われた文芸運動が起源であった。この運動は、三王国の文学作品・雑誌・新聞などを相互に融通しあい、北欧の文化的一体性と経済的発展を目指した文化活動が主体であったが、この時、スウェーデン・ルンド大学の作家が、「北欧の分裂と抗争の時代は終った」と語った事から、北欧三ヶ国の知識人学生らによる社会的・政治的運動へと拡大して行った。1838年には、コペンハーゲン大学ルンド大学大学生が、氷結したエーレスンド海峡の氷上で邂逅し、北欧の連帯と団結を誓い合った。そしてその運動は、学生たちによるスカンディナヴィア学生大会に発展して行く。
この運動に対し、当時のデンマークとスウェーデンの国王は、当初は関心を抱かなかったが、1844年に即位したスウェーデン=ノルウェーオスカル1世は、積極的に支持し、これを国是とした。また、1848年に即位したデンマーク王フレデリク7世も同調し、急速に実現へ向けて動き出すことになる。
1840年以降には、北欧三国で学生大会や、知識人による大会が行われる様になり、政治的なスローガンが掲げられ、急速に政治的な運動を帯びて行った。1840年代後半には、フィンランド大公国ヘルシンキ大学の学生が参加し、ロシア帝国がこれに抗議するという事態となった。ロシアの介入を懸念した北欧諸国の政府は、この運動を不快視し、文化活動と政治運動の乖離が見られる様になる。
こうした中、国際情勢は急激に悪化する事となる。ヨーロッパに吹き荒れた「1848年革命」は、「ウィーン体制」の秩序を崩壊させ、北欧はヨーロッパの国際問題に巻き込まれて行くのである。勃興する帝国主義、特に後に「汎ゲルマン主義」へと発展する「ドイツ統一問題」そして、盟主ロシア帝国による「汎スラヴ主義」が北欧を覆い、その脅威に対抗するために、北欧の団結と統合が真剣に唱えられる様になった。こうした北欧諸国民の意を酌む様に、スウェーデン王オスカル1世は、汎スカンディナヴィア主義の盟主及び牽引者となり、デンマーク国王フレデリク7世及びデンマーク政府も、オスカル1世が打ち出した政策を一致団結して行う事となった。
かかる時代背景の中、北欧では、デンマークとドイツ統一問題を巡る「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」と言う民族問題に巻き込まれて行く。汎スカンディナヴィア主義運動は、北欧の団結をスローガンにオスカル1世の指導の元、デンマークという兄弟国の救済に奔走するのである。1848年にそれは「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」として現実化したが、最終的に汎スカンディナヴィア主義の昂揚を背景に、1852年にスウェーデンの調停による「ロンドン議定書」が締結され、デンマークの優位で休戦した。しかし休戦協定は、汎スカンディナヴィア主義を必要以上に盲信するデンマーク政府の過度な強硬姿勢により混迷を深め、このシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題が、汎スカンディナヴィア主義の挫折の伏線となるのである。
また、1853年には、ロシア帝国とイギリスフランスの列強間で「クリミア戦争」が勃発した。この戦争に対し、オスカル1世は、ロシアに対し宣戦布告を考えたが、フィンランドの奪回の他にフィンランド人の救済という意図も部分的にあった。なお、フィンランドにおいても、「1848年革命」の後、ロシアへの反感から、民族主義が昂揚して行った。フィンランド人の中にも、フィンランドが北欧の一員であると言う自負が芽生え、フィンランドナショナリズムへと発展して行くのである。
第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争後、汎スカンディナヴィア主義は一時停滞したが、1856年にオスカル1世は、スカンディナヴィア学生大会に出席した学生らをドロットニングホルム宮殿に招き、「今や北欧諸国間の戦争は不可能となった」という演説をした事から、再び昂揚して行く。さらに1857年には、スウェーデン・デンマークの軍事同盟が提唱された。これは、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題に対する自衛策であったが、スウェーデン政府はこの案を否決した。オスカル1世は1859年に没したが、その子であるスウェーデン王カール15世国策として引き継がれた。しかしこの頃には、すでに汎スカンディナヴィア主義は退潮の兆しを迎えていた。それは、北欧諸国の政府による幕引きでもあった。その一方で、北欧諸国民による北欧三国による統一国家が真剣に検討されていた。汎スカンディナヴィア主義の火は消えず、時のデンマーク国王フレデリク7世に後継者が生まれないことを契機に、フレデリク7世がカール15世を養子にするという形で、スウェーデン・デンマーク王室主導の「スカンディナヴィア連合王国」も模索されていた。これは、中世以来の「カルマル同盟」の再興の意味を持っていた。統一国家の首都はイェーテボリになるとまことしやかに囁かれた。
1863年、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争再来の暗影の中で、スウェーデンのイェーテボリで国民会議が開かれた。その主旨は経済会議であったが、出席たちの北欧の政治統合を目指した「北欧連合議会」の設立が主張された。これは「北欧連合国家」樹立を目指した、汎スカンディナヴィア主義の最後の昂揚であった。
1864年、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題は、デンマークによる新王朝グリュクスボー朝が、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の継承を宣言した事から、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は再開された。この頃、すでにデンマークを除く北欧諸国の政府及び政治家たちは、汎スカンディナヴィア主義に対しては冷淡となっていた。スウェーデン政府は、国王の政治問題への介入を、民主政治に対する越権行為であると考えていた。カール15世は、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に対して参戦する意志を表明したが、政府は拒絶し、ここに汎スカンディナヴィア主義の理念は消滅した。これら全てを見切っていたプロイセンビスマルク外交の前に、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争はデンマークの大敗に終り、汎スカンディナヴィア主義運動は潰えた。北欧統一の夢は、厳しい国際社会の現実の前には無力であったのである。この帰結は、北欧各国の自立化へと向い、以後、北欧は、より冷徹な形での重武装中立主義へと変遷して行った。1905年のノルウェー独立は、その一因と言える。
なお、1872年に即位したスウェーデン王オスカル2世は、ドイツ帝国による「汎ゲルマン主義」に傾倒している。これは、形を変えた汎スカンディナヴィア主義の表れであったと同時に、北欧の団結と統一を拒絶した、スウェーデン政府への抵抗であった。
北欧諸国の連帯が実現するのは1世紀経った1952年北欧理事会設立まで待たねばならなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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