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汐ノ海 運右エ門(しおのうみ うんえもん、1918年3月1日 - 1983年7月18日)は、兵庫県印南郡(現:兵庫県姫路市)出身で、出羽海部屋に所属した大相撲力士である。最高位は西大関。本名は岸本 忠夫(きしもと ただお)。得意手は右四つ、寄り、筈押しなど。現役時代の体格は180cm、113kg。 == 来歴 == 1918年3月1日、兵庫県印南郡(現:兵庫県姫路市)で生まれた。小学生の頃から体格が良く腕力も強かったことから、大人と同じ塩田作業に従事していたが、岸本少年の素質を見出した同郷の好角家に笠置山勝一を紹介され、出羽海部屋へ入門した。笠置山は当時としては珍しい大学出身(早稲田大学)のインテリ力士で、当時の出羽海部屋では「打倒双葉」を合言葉に双葉山の連勝を止めるための研究・対策を繰り広げていた。その作戦本部長のポジションにいたのが笠置山で、岸本少年も例外なく入門当初から有望視された。 1938年1月場所において20歳で初土俵を踏んだ。当時としては遅い入門だったが順調に出世していき、1942年1月場所で新十両へ昇進、1943年1月場所で新入幕を果たした。赤胴色の筋肉質な身体で、同部屋の駿河海光夫が「青鬼」と呼ばれていたのに対して「赤鬼」と呼ばれた。 第二次世界大戦の真っ只中でありながら、ちょうどその時期が最盛期だったことであまり注目を浴びることは無かったが、東西制最後の場所となった1947年6月場所で大関へ昇進を果たし、出羽海部屋の将来を背負う存在として注目された。だが1948年5月場所で怪我により1勝も出来ずに途中休場、大関角番だった同年10月場所で3勝8敗と、大関の地位で2場所連続負け越しした為、翌1949年1月場所では関脇の地位に陥落。同年5月場所では平幕(前頭2枚目)まで降格したが10勝、次の10月場所にて関脇で10勝を上げた後、大関復帰を果たした。 しかし大関再昇進後も乱調が続き、1951年1月・5月(通算3度目の角番)場所と再び大関で2場所連続の途中休場による負け越しで又しても関脇降下が決定的となり、この同年5月場所を最後に現役引退を表明した。大関在位は通算合計で9場所(新大関から4場所・大関復活後5場所)で、大関での勝ち越しは僅か3場所という不本意な結果に終わった。また、羽黒山政司には通算で13戦全敗と全く歯が立たなかった〔最高位が大関でありながら、10回以上対戦した相手に対して対戦成績が全敗の相手が存在するのは、この汐ノ海 - 羽黒山の他に大関・雅山哲士(在位8場所で関脇へ陥落)が横綱・貴乃花光司に11戦全敗しているだけである。〕。 引退後は年寄・出来山を襲名、停年退職まで出羽海部屋所属の年寄として長く勝負審判も務めたほか、後進の指導にも当たった。 1983年2月28日に日本相撲協会を停年退職した後は、東京都江東区門前仲町で在職中に始めた旅館「岸もと」を経営したが、同年7月18日、同区内の自宅で心筋梗塞のため亡くなった。。 「細身ながら怪力」という共通点を持つ出羽の花義貴が彼の没後に「出来山」の名跡を継承したのは、何かの縁とも思われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「汐ノ海運右エ門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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