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汐見洋
汐見 洋(しおみ よう、1895年7月7日 - 1964年7月1日)は、日本の俳優〔KINENOTE「汐見洋」の項 〕。東京市(現在の東京都)出身。本名は片山 喜三郎(かたやま きさぶろう)。旧芸名は汐見 蓊、汐見 扇。 == 来歴・人物 == 1917年、慶応義塾大学経済学部を中退、会社勤務の傍ら演劇を研究する。1920年に新劇団研究座を石川治、西条軍之助らと組織し、汐見 蓊を芸名に同年4月の有楽座での第一回公演『星飛ぶ夜』で初舞台を踏む。1924年6月、小山内薫、土方与志らの築地小劇場創立に参加、第一回公演『海戦』以降、築地の舞台に立つ。1927年、日本のトーキー映画の先駆をなした皆川式トーキー『黎明』に築地小劇場の座員と共に出演、小山内監督の下で主役を演じる。 1929年3月の築地分裂後、1930年6月に青山杉作、友田恭助、田村秋子らと劇団新東京を結成。『フィガロの結婚』を第一回公演に八住利雄作品『罌粟はなぜ赤い』、『街のルンペン』などを上演し、1931年9月に解散。1932年、青山、東山千栄子らと劇団東京を結成。『美しき葡萄畑』で旗上げするも1933年1月に解散。この間、端正な容姿と品格を持った演技でスタアとして活躍した。 1934年1月、P.C.L.映画製作所の準専属となり、芸名も汐見 洋と改名。1935年の映画『さくら音頭・涙の母』以降、映画俳優として同年『噂の娘』に出演する一方、1934年1月に結成された関西新派に参加する。1937年10月、東宝の専属俳優となり戦時中も積極的に出演。1946年、『麗人』などの作品に出演したのち、1947年に新東宝へ転じたが、東宝争議終結後の1952年に東宝に復帰する。1955年には日活と契約を結び、同年の映画『月は上りぬ』など主に老け役で折り目の正しい演技を見せてその後、東京映画と契約する。 しかし1964年、石井輝男監督映画『御金蔵破り』に出演したが、封切りを待たず同年7月1日午後13時30分、消化器疾患のため東京都杉並区西永福の樺島病院で死去した。満68歳没。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「汐見洋」の詳細全文を読む
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