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江副靖臣[えぞえ やすおみ]
江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年4月20日〔『第拾壱回改選 代議士銘鑑』、国華新聞社、1912年。〕) - 1915年(大正4年)4月24日)は佐賀藩出身の明治、大正時代の士族、弁護士、政治家、実業家。佐賀新聞の創刊者・初代社長、衆議院議員。本姓は野口。幼名は又四郎。 == 経歴 == 1851年(嘉永4年)、佐賀郡大堂村(現佐賀市諸富町)に佐賀藩士、野口惣三の三男として生まれ、のち江副家の養子となった。藩校弘道館に学び17歳で江戸藩邸詰に任ぜられた。 明治維新後に慶應義塾に入り、横浜のヘボン塾に遊学した。慶應義塾在学中の1872年(明治5年)に新聞社を設立するがこれは失敗し、ほどなく廃刊となった。その後1874年(明治7年)、24歳の時に迎えた佐賀の乱では江藤新平率いる征韓党に属している。 乱の後は家永恭種らと共に戊寅義塾を設立し後進の指導に当たっていたが、1883年(明治16年)の佐賀活版社の設立を皮切りに、翌年再度新聞事業に挑戦し佐賀新聞社を設立、さらに1886年(明治19年)代言人(弁護士)の資格を得てからは佐賀市の市制実施などに力を尽くした。また、1887年(明治20年)に設立された九州鉄道では取締役を務めている。 1889年(明治22年)から佐賀市議会議員を22年務め、うち16年間議長を務めた。さらに県議会議員を経て、1912年(明治45年)5月の第11回総選挙に佐賀県佐賀市区から出馬し、衆議院議員に初当選を果たした。数回の落選を経ての当選だったが、わずか3年後の1915年(大正4年)4月24日死去した。64歳。墓所は佐賀市高伝寺にある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江副靖臣」の詳細全文を読む
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