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江戸三十三箇所(えどさんじゅうさんかしょ)とは、東京都内にある33箇所の観音札所のことである。現在ではもっぱら1976年(昭和51年)に改訂された「昭和新撰江戸三十三観音札所」のことを指す。前身は江戸時代からあるとされるが札所寺院は廃仏毀釈などで半数以上が入れ替わっている。 == 江戸三十三箇所の起源 == 江戸時代、西国三十三所や坂東三十三箇所などの観音霊場巡礼が流行した際、各地で既存の観音巡礼を模した新たな札所(写し霊場)が設けられた。江戸では特に西国三十三所(本西国)に見立てて、三十三の寺院を選ぶ西国写し霊場が流行した。江戸時代の江戸市中周辺には記録に残っているだけで二十ヶ所もの西国写し霊場が存在していたとされる。(近藤隆二郎『江戸における写し霊場の鑑賞構造』(平成7年度日本造園学会研究発表論文集(13)) これらの霊場は、「昔、京順礼・江戸順礼といふことありときけり。是は富家の婦女、又茶屋者、風呂屋物などとなへし売女の類、衣装に伊達を尽くし笈摺胸札をかけて、実の順禮の如くいでたち、洛陽三十三所の観音へまうつるを京順禮と云なり。江戸順禮も又是におなじ」(柳亭種彦『足薪翁記』)とあるように、「幕府の厳しい規制下で自由に衣装本能を謳歌できない都市女性が近くの巡礼に仮託して、風俗の解放を求めたもの」(前掲近藤の説)とされ、京都で流行した後白河法皇選定の洛陽三十三所観音霊場巡礼をもととし、信仰よりもレジャー、ファッションの一環として行われていたものであった。これら数々の江戸三十三箇所は神仏習合のものもあり、例えば「江戸西国三十三所」では、「ここから眺める不忍池の景色が、石山寺から眺める琵琶湖の景色に似ている」という理由で上野の五條天神社 (台東区)も札所の一つにされていた。(前掲近藤論文) 現行の江戸三十三箇所もこの江戸時代の観音巡礼の一つに起源を持つとされており、ネット上ではしばしば『元禄年間に設定されたことが「江戸砂子拾遺」に記されている』とされるが、これは根拠も乏しく疑問である。元禄年間設定の観音巡礼は「武蔵三十三箇所」「江都古来三十三箇所」の2つあり、現在のものがどちらを起源とするのかは良くわからない。田上善夫は現在の「昭和新撰江戸三十三観音札所」の前身を寛文8年(1668年)選定の「江都三十三所観音」とする。(田上『地方霊場の開創とその巡拝路について』富山大学教育学部紀要58、2004) いずれにせよ現在の札所には3番の大観音寺、5番の大安楽寺など明治時代創建、果ては昭和26年開創の世田谷山観音寺といった近現代に作られた寺院も含まれており、田上によれば「江都三十三所観音」の33ヶ所中19箇所が廃絶し、昭和新撰時に19箇所が新規に加えられたとしている。なお、平成4年には30番札所が入れ替わっている。(淡交社編「御朱印巡礼」による) 下記の一覧も、この昭和新撰のものを記載している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江戸三十三箇所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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