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江戸薩摩藩邸の焼討事件 : ウィキペディア日本語版 | 江戸薩摩藩邸の焼討事件[えどさつまはんていのやきうちじけん] 江戸薩摩藩邸の焼討事件(えどさつまはんていのやきうちじけん)は、薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、幕末の慶応3年12月25日(1868年1月19日)の江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、砲火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけとなった。 == 経緯 == この時期、前将軍徳川慶喜をはじめとする旧幕府の幹部は小御所会議により大坂城に詰めており、江戸には市中取締の藩兵のみが警護にあたっていた。京では朝廷が幕府に見切りをつけて慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩と長州に下された。13日に密勅を賜った薩摩はすぐに行動を開始する。薩摩の意を受けて活動を開始したのは相楽総三であり、三田の薩摩藩邸を根拠地として意思を同じくする倒幕、尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数招き入れた。彼らは薩摩藩士伊牟田尚平や益満休之助に指導を受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。旧幕府も前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に「盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し捕り申すべし。賊が逆らいて、その手に余れば討ち果たすも苦しからず」と厳重に市中の取締りを命じたが、武装集団に対しては十分な取締りとならなかった。庄内藩は旧幕府が上洛のため編成し、その後警護に当たっていた新徴組を借り受け、薩摩藩邸を見張らせた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「江戸薩摩藩邸の焼討事件」の詳細全文を読む
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