翻訳と辞書
Words near each other
・ 江見絹子
・ 江見翔太
・ 江見駅
・ 江角マキコ
・ 江角マキコの恋愛の科学
・ 江角マキ子
・ 江角浩司
・ 江角真紀子
・ 江角英明
・ 江談抄
江謐
・ 江谷典子
・ 江豆町
・ 江豆町ブリトビラロマンSF
・ 江賀寅三
・ 江越哲也
・ 江越大賀
・ 江越彬紀
・ 江越由佳
・ 江辺北路


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

江謐 : ウィキペディア日本語版
江謐[こう ひつ]
江謐(こう ひつ、431年 - 482年)は、南朝宋からにかけての官僚は令和。本貫済陽郡考城県
== 経歴 ==
尚書都官郎・呉県令の江徽の子として生まれた。453年元嘉30年)、劉劭のために父が殺害されると、江謐は獄に繋がれた。武陵王劉駿建康を平定すると、江謐は出獄することができた。奉朝請を初任とし、輔国行参軍・于湖県令をつとめた。465年永光元年)1月、湘東王劉彧南豫州刺史となると、江謐は劉彧の側近で仕えた。同年(泰始元年)12月、劉彧(明帝)が即位すると、江謐は驃騎参軍となった。後に尚書度支郎に転じた。まもなく尚書右丞兼比部郎となった。
468年(泰始4年)、江夏王劉義恭の十五女が19歳で死去した。礼官は成人の礼で葬るよう意見したが、尚書左丞の孫敻が『礼記』の規定に反するものと訴えた。博士・太常以下の官が処罰され、江謐も連座して杖罰を受けた。江謐は孫敻が誤った議論を主導したと訴え、処罰を求めたため、孫敻も処罰を受けた。
469年(泰始5年)、江謐は建平王劉景素の下で冠軍長史・長沙郡内史として出向し、湘州の事務を代行した。その統治は苛酷であり、江謐は僧遵を微罪で捕らえて郡の獄に繋ぎ、餓死させた。このため糾弾を受けて召還された。472年泰予元年)、明帝が死去すると、江謐は赦免された。正員郎となり、右軍将軍の号を受けた。
474年元徽2年)、蕭道成南兗州刺史となると、江謐はその下で鎮軍長史・広陵郡太守となった。入朝して游撃将軍の号を受けた。476年(元徽4年)、建平王劉景素が反乱を起こして殺害され、劉景素と親しい人々は処断されたが、江謐はひとり禍を免れた。477年(元徽5年)、後廃帝が廃位されると、江謐は蕭道成と結び、本官のまま尚書左丞を兼ねた。同年(昇明元年)、黄門侍郎となった。沈攸之の乱が起こると、江謐は蕭道成に黄鉞を加える議論を起こした。478年(昇明2年)、沈攸之の乱が鎮圧されると、江謐は吏部郎となった。太尉諮議に転じ、録事参軍を兼ねた。479年(昇明3年)、蕭道成が斉王となると、江謐は右衛将軍の号を受けた。同年(建元元年)、蕭道成が斉の皇帝として即位すると、江謐は侍中の位を受けた。臨川王平西長史・冠軍将軍・長沙郡内史・行湘州留事として出向し、豫章王蕭嶷を補佐して長史をつとめた。永新県伯に封じられた。481年(建元3年)、左民尚書となった。吏部尚書に転じた。482年(建元4年)、蕭道成が死去すると、江謐は病と称して入朝せず、不満を抱いているのではないかと疑われた。武帝が即位したが、江謐は官の異動がなく、これを恨んだ。ときに武帝が病床についたため、江謐は豫章王蕭嶷のもとを訪れて、奪位をそそのかした。武帝がこれを知ると、江謐に征虜将軍・鎮北長史・南東海郡太守への出向を命じた。出発しないうちに、武帝は御史中丞の沈沖に命じて江謐の前後の罪を弾劾させた。このため江謐は死を賜った。享年は52。
子の江介は建武年間に呉県令となったが、民間で死人の髑髏が江謐の首として掲示されると、江介は官を捨てて去った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「江謐」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.